竜とそばかすのバーストリンカー

『竜とそばかすの姫』

 仮想世界〈U〉で活動する自らの分身、〈As〉。少し悩んだ末、鈴はそれを「Bell(ベル)」と名付ける。鈴だからベル。素朴な名付けだ。

 ベルがその歌声を披露して間もなく、〈U〉はベルの話題で持ちきりになる。その中で、誰からかこんな声が上がる。「ベル」の綴りは「Belle」こそふさわしい、フランス語で「美しい」という意味だ、と。

 それ以降〈U〉においては、ベルの話題は「Belle」の表記で流通する。そうして誰も「Bell」のベルを見ることをしない。〈U〉の住人たちは、彼らの見たい虚像を見るだけだ。

 現実のベルは誰だ、ベルの正体探しだと盛り上がっていても、あの有名人じゃないか、いやこの有名人だ、というばかりで、彼らが見つけられるのはどこまで行っても空しい何かだ。虚像の内側とはそんなものだ。

 その一方で、いつでも鈴その人を見ている、鈴の周りの人たちは、〈U〉にあっても易々と彼女を見つける。その理屈は描かれないが、たしかに理屈はないのだろう。

 ただ、それのみならず。チームそばかす(私なりの素朴な名付け)の皆さんは、現実の「竜」の居場所をさえも、驚くべき早さで見つけてしまう。圧倒的リアル割り能力。彼らなら、〈U〉ではなくて〈ブレイン・バースト〉の世界でも、かなりやれるのではないか。

 *

 ベルのファンたちが殺到して処理落ちすることで活路が開ける的なクライマックスだけは勘弁してほしいなと祈っていたら、そういう展開にはならなかったので、それだけでもう個人的には良かった。

 それにしても。あたかもパソコンがないところのように島根を描いた同じ手が、田舎の廃小学校にまでブロードなネットワークが行き渡った高知を提示してみせるというのは。細田守は今一度、島根をポジティブに扱った映画を作った方がよいと思う。

人生の席

『呪術廻戦』#24「共犯」

 釘崎が人生の席の話をする。

「[……]伏黒じゃないけどさあ、結局助けられる人間なんて限りがあんのよ。私の人生の席……ていうか……そこに座ってない人間に、私の心をどうこうされたくないのよねー。冷たい? ま、あんたみたいに、自分で椅子持ってきて座ってるやつもいるけどねー。[……]」

 虎杖が宿儺の指を取り込んだことが様々な事件の引き金になっていることを、伏黒は虎杖に、虎杖は伏黒に、気づかれまいと思う。そのことを知れば、相手は自責し傷つくだろうから。自分は耐えられても、相手に傷ついてほしくない。相手が傷つかないでほしいから、自分は平気でなければならない。

 用意された椅子か、持ってきた椅子か。その椅子は、あってしまえば抜き難い。

答えられない問い

吉本隆明吉本隆明拾遺講演集 地獄と人間』(ボーダーインク

[……]僕らも、近親者をいくたびか見送ったことがありますけど、答えられないんですよ。兄貴の長女が子宮癌で亡くなりましたけど、そのときもそばにいて、「叔父さん、どうかんがえたらいいの」って。医者のほうからは、もうあきらめられているというのは、知っているのですけど、で、「これはどうかんがえたらいいの」と聞かれて、僕は答えることができなかったんですよ。それでできなくて、答えられないで、お前、偉そうなことをいっているのはおかしいというふうに、そのとき、自分が、何ていうか、口惜しくて、くやしくてしょうがなかったというおもいをもっています。そのくやしさは、今ももっています。答えられないのですよ。そういうふうに、真っ正面から、そういう境地になっている人に聞かれたら、僕、答えられないんです。

 もうひとつ、こういうことがありました。それは、交通事故で、腕のここから先を切りとらざるをえなかったという人で、知らない読者の人でしたけど、やはり、「これをどうかんがえたらいいのですか」と聞かれたんです。それも答えられないのです。どうかんがえたらという意味は、僕は、すぐ、どういうことをいっているのかわかりましたけど。わかることはわかりました。

 つまり、腕のここから先を切りとったと、切りとらざるをえなかったと。しばらくの間、幻肢というのがあるという。医者は、そういうのがあるとよく知っています。それが、いろいろなことで、動きを邪魔したりして、それで、どう扱っていいのかわからないという事実があるわけです。だけど、その人が聞いているのは、事実ではないのです。ある日、交通事故で、腕のここから先をとらざるをえなかった。そのことは何なのだと。身体の一部がひとつなくなってしまった。幻肢は少しあるかもしれない。しかし、それは、二の次の問題で、事実としてそうであるかどうかは別で、この突然なくなる、肉体の一部分ですが、これがなくなるということは、どういうことなのだということを、知りたいという。そういうことだと。読者の人で、雑誌のうえではよくお目にかかっているから、そういう意味で、思想的には初対面ではないのですが、そのときも答えられなかったわけです。それで、これはいかんと。こういうことに答えられないで、何か偉そうなことを書くというのはおかしいではないかと、自分を問いつめたことがあります。

 それで、今、聞かれたらどうなのだと。これはちっとも解決していないのです。それはこうなんだということはいえませんし、瀬戸内寂聴さんみたいに、「死は怖くないわぁ」なんて、そんなことはもちろんいえませんし、今でも答えられないんですよ。

(「日本浄土系の思想と意味」、pp.270-272)

星をちりばめたマント

ローザ・ルクセンブルク;大島かおり編訳『獄中からの手紙 ゾフィー・リープクネヒトへ』(みすず書房

 昨夜、九時ごろのこと、また一つすばらしい光景を見ましたよ。ソファーに座っていると、窓ガラスにバラ色の反射光がきらめいているのに気がつきました、空はすっかり灰色だったので、びっくりして窓に駆けよると、そのまま魂を奪われたように立ちすくんでしまいました。一面どこも灰色の空の東のほうに、この世ならぬ美しさのバラ色をした大きな雲が、塔のように聳え立っているではありませんか。ただひとり、あらゆるものから自分を解き放ってきらめいているその姿は、まるでほほえみのように、人知れぬ彼方からの挨拶のように思えました。わたしは解放感に満たされて深く息を吸うと、思わず両手をその魔法の姿のほうへ差し伸べました。このような色、このような形姿があるからには、人生は美しい、生きる価値がある。ね、そうでしょう? わたしはそのかがやく姿に吸い付くように視線を据えて、バラ色の光のひと筋ひと筋を体内に取りこみましたが、そのうち不意にそんな自分がおかしくて笑い出さずにはいられなくなりました。だってそうでしょ、空も雲も、人生の美しさも、ヴロンケにじっと留まっているわけじゃない、それらに別れを告げる必要はない。どれもわたしといっしょに来るのです、わたしがどこにいようと、生きているかぎり、わたしといっしょにいてくれるのです。

(pp.93-94、ヴロンケ 一九一七年七月二〇日)

 ヴロンケからブレスラウへの移転を前にしたローザは、手紙にこのように書く。美しいもの、かがやかしいものがあらわれるとき、それはいつもここに、自らへ向けてあらわれるのだという気づき。

 そうして移転した先のブレスラウでもローザは、不自由な中にも、遠くに見える木々や鳥の声に自然の息づかいを求める。さらには、そのようなものがなくてさえも、陰鬱さをもたらしそうなものからさえも、生命の歌を聞き取る。

 昨日は長いこと目を覚ましたままベッドに横になっていました――いまでは一時まえにはどうしても寝つかれないのですが、十時にはもう就寝と決められているので、闇のなかでさまざまな夢想にふけります。昨夜はこんなことを考えました。わたしが――特別な理由もないのに――いつも歓ばしい陶酔のうちに生きているのは、なんと奇妙なことだろう。たとえばここの暗い監房で石のように固いマットレスに横たわり、周囲は教会墓地なみの静けさに満たされていて、自分も墓のなかにいるような気がしてくる。窓からは、獄舎のまえに夜どおし灯る街灯が毛布の上に反射光を落としている。ときおり聞こえてくるのは、遠くを通りすぎてゆく鉄道列車のごく鈍いひびき、あるいはすぐ近く、窓の下で歩哨が咳払いし、こわばった脚をほぐすために何歩かゆっくりと重い長靴で歩く音だけ。踏まれた砂が絶望のきしみ声をあげ、その音は出口なき囚われの身の全寂寥感をひびかせて、湿った暗い夜へと吸い込まれていく。そこにわたしはひとり静かに、闇、退屈、冬の不自由さというこの幾重もの黒い布にぐるぐる巻きにされて横たわっている――それなのにわたしの心臓は、燦々たる陽光をあびて花咲く野辺を行くときのように、とらえがたい未知の内なる歓喜に高鳴っている。そしてわたしは人生に向かってほほえむ。まるでなにか魔法の秘技を心得ていて、悪いこと悲しいことはぜんぶ嘘だと罰して、純粋な明るさと幸福に変えてしまえるかのように。そうしながらも自分でこの歓びの原因を探ってはみるけれど、何ひとつみつからず、またしても――われとわが身が可笑しくて――ほほえんでしまう。わたしの思うに、魔法の秘技とは生きることそれ自体にほかなりません。深い夜の闇も、しっかり眺めさえすれば、びろうどのように美しくて柔らかです。歩哨のゆっくりとした重い歩みにきしむ湿った砂の音も、正しく聴きさえすれば、やはりささやかな美しい生命の歌なのです。そのような瞬間に、わたしはあなたを思い、この魔法の鍵をわけてあげたくてたまらなくなります。それがあれば、あなたはどんな境遇にあっても、いつも人生の美しいところ、歓ばしいところに気づくでしょうし、彩り豊かな草原を行くように陶然として生きることでしょう。なにも禁欲主義だの空想上だけの歓びを説いて、あなたをたぶらかそうというのじゃありませんよ。わたしが五感でほんとうに感じとっている歓びのすべてを、あなたに伝えているのです。それに加えて、わたしの内面の涸れることのない明るさをわけてあげたい。そうすれば、あなたは星をちりばめたマントに身を包んで人生を歩んでゆく、そのマントがあなたをあらゆる卑小なこと、些細なこと、不安にさせることから守ってくれると思えて、わたしは安心していられます。

(pp.132-134、[ブレスラウ 一九一七年一二月二四日以前])

  釈放されたあとのローザは、活動に奔走し、わずか二ヶ月後には殺害されることとなる。

 監獄の中ではわがものとしていた魔法の秘技は、そのとき、その最後の日々にも、まだそこにあっただろうか。ローザはほほえむことがあっただろうか。

 ローザ自身がきらめきと化してしまったような日々に。

「僕の孤独はほとんど極限に耐えられる」

シェリー;小林章夫訳『フランケンシュタイン』(光文社古典新訳文庫

「(……)おまえがまだ生きていて、おれに対する復讐の気持ちを抱き続けていれば、おれが死ぬより、生きている方が心は満たされたはずだ。だが現実はそうではなかった。おまえはおれを消して、二度と大きな災いをもたらさないことを望んだ。もしもおれの理解を越えたやり方で、おまえが今も考え感じることができるとしても、おれが今感じているよりもさらに大きな復讐を望むことはあるまい。おまえがいかにうちひしがれても、おれの苦しみがずっと上なのだ。悔恨の痛みがおれの傷をうずかせ、それは死ぬまでずっと続くのだからな」

(p.399)

 身内や親しい人々を奪われたヴィクターにとっては、その復讐は、怪物の死をもって完了する。それよりほかになすべきはない、そう思い詰めていた。一方、ヴィクターから奪えるだけのものを奪い、それがためにもはや望みの全てを絶たれた怪物には、ヴィクターの死は復讐の目的たりえない。ヴィクターの命によってなお贖えないだけの復讐心を、怪物はその内に蔵していた。

 両者がまともに対決すれば、怪物がヴィクターを斃してしまうことは疑いがない。それは、ほかならぬ怪物にとって恐るべきことだ。それでは満たされない、どころかむしろ、ヴィクターをその手に掛けることは、決定的な欠遺を招くことだ。それゆえ怪物は、最終局面において、ひたすら逃げ回り、対決を先延ばしにする。ヴィクターに苦しみもがきのなかを追いかけさせることが、怪物にとっての復讐の一部だと、言えるかもしれないが、言ってみたところで、一部的な復讐など怪物には慰めにもならない。

 怪物を追って追って追いつづけ、ついにヴィクターは力尽き、死に果てる。そして怪物の復讐は、終わらない。ヴィクターの死は終わりではない。終わりはとうに失われたのだ。それでも終わりがあるとすれば? ただ、自らの死のときに、その命とともに、復讐もまた消えるだろう。怪物はそれを分かっている。おそらくはほとんど初めの罪のときから。分かっていて、その運命の窮極までを怪物は生き、去りゆく。死地と思い定めた場所へ。

 そのとき、この世にひとつの孤独も消える。