過ぎたものたち、愛するべき人

嵐電

 ときに思いと裏腹に、人と人とは疎遠になる。

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 この映画に登場する三組の男女は、妖怪電車に出合い、いずれも突然の別れを迎える。

  嵐電に現れる狐と狸の妖怪電車。それを目撃すると、大事な人と別れてしまう。そんな都市伝説があるという。しかしながら、見るかぎりではこの伝説は、事の順序を正しく伝えていないように思える。

 たしかに彼らは離れ離れになる。だがそれは、大事な人であるがゆえに、だろうか。

 むしろ、まず別れがある。そうして、そのことが、それまであいまいな形でしかなかった思いの中から、相手の大事さを浮かび上がらせる。離れた時間が、相手の大事であることを、胸に叫ぶ。

 さらにすすんで。この都市伝説を知る者には、妖怪電車と出合うことがすでに、隣にいる存在の大事さの予感となりまた確信となる。であれば、これからたちまち来るだろう避けがたい別れへと思いは逸る。

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 妖怪電車は、引き起こす別れによって、大事な人を鮮烈に生み出す。

 そしてまた嵐電は、そののどやかな速さで、人と人とを繋ぎ直す。

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 追いつ追われつの果て、南天が子午線に「うぬぼれろよ! あたしが好きだって言ってんだから」と口走る場面にみなぎる、中学生日記感!

それが、愛でしょう

ヴァイオレット・エヴァーガーデン

 戦争とこれほど近くありながら、手紙の中にはきれいな愛しかない。いさかいや、絶離を告げる手紙は、この世界には無いのだろうか。そういう仕事はヴァイオレットのいる部署・会社とは違うところで受け持っている? それとも、戦争と近ければこそ?

 #11「「もう、誰も死なせたくない」」では、もう死ぬしかないような戦場からの手紙をヴァイオレットは代筆する。田舎に残してきた両親と幼馴染みに、きれいな愛を届ける。受け取った側は涙を流して感謝する。

 しかし。田舎にはまるでいい思い出がなく、最期の恨み言を手紙にして送りつける兵士の話を、私なら考えてしまう。田舎の人たちは複雑な思いでそれを受け取る。そうしてヴァイオレットに感謝するかもしれない……。

 届かなくていい手紙なんてない。そう言うけれど、醜悪で目を背けたくなるような手紙は、そもそも作中から排除されている。そういうものに対しても、届かなくていいなんてことはないと、ヴァイオレットは言えるのか。というところまでを見せてほしかった。せめてその可能性を。

エボ鯛の開き

ミュウツーの逆襲 EVOLUTION』

ミュウツーの逆襲 EVOLUTION』を観てシナリオえーだば創作術のミュウツー周りの記事を読み返してたら昨日という日が終わった。

 上層部は、アニメを派手に見せるため、CGを使いたかったらしいが、日本のCGは、当時、発展途上中である。

 しかも僕には、ポケモンの図柄とCGがマッチするか、疑問だった。

 それでもCGをどうしても出したかったのか、題名タイトルにはしっかり登場させていた。

シナリオえーだば創作術 だれでもできる脚本家 第174回 「差別」といっても大げさに考えないでください - WEBアニメスタイル_COLUMN

 このときの情念が上層部にずっと燻っていて、それで今回の『EVOLUTION』製作に至ったのだろうか。当時の上層部がまだ君臨しているのかは知らないが。

 『ミュウツーの逆襲』にもテーマを語る台詞がないわけではない。

 主人公のサトシが「なぜここにいるんだろう」とつぶやいた時に、カスミがさりげなく答える台詞「さあね、いるんだからいるんじゃない」である。

 自己存在などということは言わないし生きていることが大事なんだとも言わないが、「いるんだからいるんじゃない」でも言いすぎな気が書いた僕自身している。

 だからこの台詞は、『ミュウツーの逆襲』の主人公であるミュウツーもサトシも言わない。

 脇役であるカスミにさりげなく言わせた。

 あくまでさりげなくである。

同 第191回 『ルギア』男? 女? そんなの関係ない - WEBアニメスタイル_COLUMN

 ミュウツーがずっと自問しつづけた存在の意味、その玄義めいたことを、カスミは意図もなく軽く言ってのける。ここにある種のカタルシスがあるわけだけど、あからさますぎると言えばたしかにそうで。言葉で明示されたためにテーマとしてはかえって弱まると言うか。

 したがって我々もこの箇所では、テーマ発見!と力むのでなく、ふふっと笑って軽く受け止めるくらいがちょうどいいように思う。

 それよりも、ポケモンたちの零す涙の訳の分からなさに、やはり思うところは大きい。

 ポケモン達の涙のわけは、何なのか?

 主役のサトシの息を吹きかえらせるためのご都合主義か?

 この映画の観客を感動させるあざとい演出過剰か?

 どう取られても、それは、観客の勝手である。

 ただ、涙嫌いの脚本家としては、この涙には別の意味がある。

 (中略)

 存在するはずのない種類の人間がいて、しかし、もう息をしていない。

 「自分たちの戦いでとても大切な存在を失った」

 悲しい……喪失感の悲しさが涙になる。

 ポケモン達の涙は、同情でも憐れみでもない喪失感なのである。

 その涙に、コピーも本物も違いはない。

 そして、そんな涙が集結して喪失したものが蘇る。

同 第180回 ポケモンの涙とミュウツーの記憶抹消 - WEBアニメスタイル_COLUMN

  脚本家としての意味はそうなのだろう。喪失した。悲しい。そうかも知れない。しかしポケモンたちは訳も分からず涙を溢れさせているだろう。

 そしてそこに、存在ということの根源的なあらわれを、ミュウツーは認めたのではないか。

ごま塩ゲマ、髷ゲマ、マグマゲマ

ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』

 私はウイルスだ、とウイルス自身が言っていることをそのまま真に受けてよいものか。

 ウイルスと称するものが現れたのが突然なら、ワクチンだというものだって勝手に用意され渡されたにすぎない。それを渡されるままに使って、ウイルスは滅ぶ。このときしかし、とどめを刺したように見えるだけで、主人公は能動的には何もしていない。ただ流されて、やらされただけのことだ。この全体が、イレギュラーなものではなく、仕組まれたゲームでしかないのでは、という疑念を拭えない。両者を分ける違いはない。

ドラゴンクエストV』の追体験にプラスアルファで、ウイルスを倒すというあなた自身が主人公の物語が楽しめたでしょ、どうぞユア・ストーリーですよ、 というごっこ遊び。たしかに映画の中の主人公はそれで満足感に浸れてよいのか知らないが、それをスクリーンで見ている私などは、知らんがな、と言うしかない。

 それにつけてもフローラの聖水というエロスよ。

「悲劇を抜いた真の生きかたはない」

岡本太郎『迷宮の人生』(アートン

 昨年の終わり頃からダダ・シュルレアリスム関連の本をいくつか読んできた流れで、最近は岡本太郎についてぼつぼつ読んでいる。

 私は生きている瞬間瞬間、迷宮のなかをくぐり抜けている思いだ。
 目の前が突然明るくひろがり、原色がギラギラと輝く。とたんに、真暗に閉ざされてしまう。いったい私は前に向かって歩いているのだろうか。あるいは、後に引きずられ、無限に落下しているのではないか。私の目前、そして全身をとりまいた世界がぐるぐる回っている。うれしいような、そして言いようのない苦しさ。
 自分は世界に向かってひらいている。と同時に、闇の中で血だらけだ。

(p.4)

 冒頭から息の詰まりそうな文章に出合って本を閉じ、呼吸を確かめる。

 表紙を見れば、この文章をそのまま具現するように、深い血の色の闇のなかに太郎の顔が浮かびあがっている。あるいは沈みかかっている。

 あるいは、張り付いている。闇に、太郎が、太郎に、闇が。

 呼吸をあきらめ読み進むよりない。