先輩はえらい

『劇場版 響け♪ ユーフォニアム ~誓いのフィナーレ~』

 キャストの中に寿美菜子の名前を見つけたので少し元気が出て、観に行くことにしました。

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 部の今年の目標の決を採る場面では、あすか先輩の不在に泣きたくなりました。一方、とにかく上手くなりたいんだ、そのために邪魔になる考えは捨てたんだ、と言うときの久美子は、あすか先輩と過ごした一年を確かめているようで、うれしくなりました。

 そのようにして、あすか先輩の在/不在をずっと思っていました。それ以外の見方は私にはできないので。

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 大会の応援に来たあすか先輩に、そんなに私が恋しかったの、と言われた久美子は、曖昧な返事しか返せないでしまう。恋しいとか、なんとか、あすか先輩との間に、そういう言葉を介在させてみたことがなかった、それを突然、あすか先輩にぴったり言われてしまったのだと思います。あすか先輩に言われて、ぴったりしてしまったのだと思います。

「最悪の 生き地獄さ!」

 新元号かっこいい、SFみたい、などの受け止めの数々に気が塞ぐ。

 いくら意味を取り繕ったところで、命令じゃないか、和せしむじゃないか、という指摘は、尤もなことだと半分は思う。

 より本質的には、政治のあるべき姿から自然の有様へと、言葉の表す対象をずらしたことが一番の問題だと感じている。それによって、われわれは元号との関係を強制的に取り結ばれ、元号は、われわれ個々人にまで重くのしかかる物となった。その意味でこそ命令なのだ。次代に響いて止まぬ号令。

 そしてまた、より感覚的には、「令」の◇形の字形がとにかく受け付けない。不安定さにぞわっとする。誰も平気なのか、不思議でならない。新元号を見るたびに、私は「令」の字のひとやねから転げ落ちる思いだ。

 何が有識者かよ。出て来い有識者だよ。

地獄に仏の他人

『えいがのおそ松さん

 童貞。クソニート。そう言って自らを貶めることにとっぷり馴染んだ六つ子たち。ギャグ漫画の世界とは、いわば閉じた世界だ。自らに飽いてよしとする世界だ。

 そんな六つ子たちにも、そのあり方に思い悩んでいた時期があった。

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 高校卒業を間近に控えた六つ子たちは、先が見えない不安にもがいていた。どこかへ抜け出さなければと焦っていた。

 どこへか。それは分からない。しかし、どこからかははっきりしている。ここから、自分からだ。そうであれば、生まれたときから6人セットの六つ子たちには、お互いが、いつまでも抜け出せない自分の鏡写しのようで、とにかく疎ましかった。

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 あの頃は頑張っていた。現在の六つ子たちはそう言える。そう言ってしまえる。ともあれ自分たちは、あの時期を通過したのだ。やれやれ、あの頃の俺たちときたら。

 しかしまた、べつの眼差しでもって当時の六つ子たちを見つめる目があった――。

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 全ての悩める自意識に、あらまほしきは佐藤利奈さん。一等賞。

叶わぬ非望

PSYCHO-PASS Sinners of the System』Case.3「恩讐の彼方に__」

 敵討ちのため、戦う術を狡噛に付いて学ぶテンジンは、父の遺品の中から見つけていた日本語の本の読み方も同時に教わることになる。その本が『恩讐の彼方に』(菊池寛)だった。

 短編ながらも、慣れない日本語。一文読み、二文読んでは、難しいところを狡噛に尋ね、何日も掛けてゆっくりゆっくり読み進めていく。そうしながらテンジンは、この本を父が遺したことの意味を考える。読み解きがたい本を読む、まさにそのスピードで。

 ある夜、テンジンはこのことについて狡噛に問うてみる。狡噛は言う。偶然のようにみえることでも、そこに意味があると感じられるなら、それは運命と呼んでもいいのではないか。

 ふとしたことでテンジンは、ついに家族の敵を見つけ出す。忍び持っていた銃を仇敵に向けて構えるテンジン。その胸中には、これまで抱えてきたさまざまの思いがよぎる。憎い憎い家族の敵を、これでやっと討てるんだ。そう思ったとき、敵討ちの最大の好機に、しかし一片の迷いが生じる。父の遺した『恩讐の彼方に』が、その意味の謎が、テンジンをためらわせる。

 お父さん、どうして。

 とうとう引き金を引けなかったテンジン。遺品の謎は、明かされないことで、娘を復讐者にしない役割を果たした。けれど、テンジンの問いはこれからも終わらないだろう。

 死者に対してできるのは、問いかけ続けることだけだ。

モンストル・シャルマン

『メアリーの総て』

 パーシーはメアリーのお腹の子を女の子だと決め込んでいたが(そして実際そうだったが)、『フランケンシュタイン』執筆中のメアリーは、自分が生み出しつつあるものが何であるのか、はっきりとは分かっていなかっただろう。生み出すことで初めて分かった。書いて、書いて、「THE END」までを書ききって、初めて分かった。そんなように思える。

 そうして、読む側もまた、『フランケンシュタイン』を通して、自身の内にあって言い当てられないものの形を、初めて知る。『フランケンシュタイン』を読むとき、我々はみな、クレアのようだろう。あるいはゴドウィン氏のようで。