エボ鯛の開き

ミュウツーの逆襲 EVOLUTION』

ミュウツーの逆襲 EVOLUTION』を観てシナリオえーだば創作術のミュウツー周りの記事を読み返してたら昨日という日が終わった。

 上層部は、アニメを派手に見せるため、CGを使いたかったらしいが、日本のCGは、当時、発展途上中である。

 しかも僕には、ポケモンの図柄とCGがマッチするか、疑問だった。

 それでもCGをどうしても出したかったのか、題名タイトルにはしっかり登場させていた。

シナリオえーだば創作術 だれでもできる脚本家 第174回 「差別」といっても大げさに考えないでください - WEBアニメスタイル_COLUMN

 このときの情念が上層部にずっと燻っていて、それで今回の『EVOLUTION』製作に至ったのだろうか。当時の上層部がまだ君臨しているのかは知らないが。

 『ミュウツーの逆襲』にもテーマを語る台詞がないわけではない。

 主人公のサトシが「なぜここにいるんだろう」とつぶやいた時に、カスミがさりげなく答える台詞「さあね、いるんだからいるんじゃない」である。

 自己存在などということは言わないし生きていることが大事なんだとも言わないが、「いるんだからいるんじゃない」でも言いすぎな気が書いた僕自身している。

 だからこの台詞は、『ミュウツーの逆襲』の主人公であるミュウツーもサトシも言わない。

 脇役であるカスミにさりげなく言わせた。

 あくまでさりげなくである。

同 第191回 『ルギア』男? 女? そんなの関係ない - WEBアニメスタイル_COLUMN

 ミュウツーがずっと自問しつづけた存在の意味、その玄義めいたことを、カスミは意図もなく軽く言ってのける。ここにある種のカタルシスがあるわけだけど、あからさますぎると言えばたしかにそうで。言葉で明示されたためにテーマとしてはかえって弱まると言うか。

 したがって我々もこの箇所では、テーマ発見!と力むのでなく、ふふっと笑って軽く受け止めるくらいがちょうどいいように思う。

 それよりも、ポケモンたちの零す涙の訳の分からなさに、やはり思うところは大きい。

 ポケモン達の涙のわけは、何なのか?

 主役のサトシの息を吹きかえらせるためのご都合主義か?

 この映画の観客を感動させるあざとい演出過剰か?

 どう取られても、それは、観客の勝手である。

 ただ、涙嫌いの脚本家としては、この涙には別の意味がある。

 (中略)

 存在するはずのない種類の人間がいて、しかし、もう息をしていない。

 「自分たちの戦いでとても大切な存在を失った」

 悲しい……喪失感の悲しさが涙になる。

 ポケモン達の涙は、同情でも憐れみでもない喪失感なのである。

 その涙に、コピーも本物も違いはない。

 そして、そんな涙が集結して喪失したものが蘇る。

同 第180回 ポケモンの涙とミュウツーの記憶抹消 - WEBアニメスタイル_COLUMN

  脚本家としての意味はそうなのだろう。喪失した。悲しい。そうかも知れない。しかしポケモンたちは訳も分からず涙を溢れさせているだろう。

 そしてそこに、存在ということの根源的なあらわれを、ミュウツーは認めたのではないか。

ごま塩ゲマ、髷ゲマ、マグマゲマ

ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』

 私はウイルスだ、とウイルス自身が言っていることをそのまま真に受けてよいものか。

 ウイルスと称するものが現れたのが突然なら、ワクチンだというものだって勝手に用意され渡されたにすぎない。それを渡されるままに使って、ウイルスは滅ぶ。このときしかし、とどめを刺したように見えるだけで、主人公は能動的には何もしていない。ただ流されて、やらされただけのことだ。この全体が、イレギュラーなものではなく、仕組まれたゲームでしかないのでは、という疑念を拭えない。両者を分ける違いはない。

ドラゴンクエストV』の追体験にプラスアルファで、ウイルスを倒すというあなた自身が主人公の物語が楽しめたでしょ、どうぞユア・ストーリーですよ、 というごっこ遊び。たしかに映画の中の主人公はそれで満足感に浸れてよいのか知らないが、それをスクリーンで見ている私などは、知らんがな、と言うしかない。

 それにつけてもフローラの聖水というエロスよ。

「悲劇を抜いた真の生きかたはない」

岡本太郎『迷宮の人生』(アートン

 昨年の終わり頃からダダ・シュルレアリスム関連の本をいくつか読んできた流れで、最近は岡本太郎についてぼつぼつ読んでいる。

 私は生きている瞬間瞬間、迷宮のなかをくぐり抜けている思いだ。
 目の前が突然明るくひろがり、原色がギラギラと輝く。とたんに、真暗に閉ざされてしまう。いったい私は前に向かって歩いているのだろうか。あるいは、後に引きずられ、無限に落下しているのではないか。私の目前、そして全身をとりまいた世界がぐるぐる回っている。うれしいような、そして言いようのない苦しさ。
 自分は世界に向かってひらいている。と同時に、闇の中で血だらけだ。

(p.4)

 冒頭から息の詰まりそうな文章に出合って本を閉じ、呼吸を確かめる。

 表紙を見れば、この文章をそのまま具現するように、深い血の色の闇のなかに太郎の顔が浮かびあがっている。あるいは沈みかかっている。

 あるいは、張り付いている。闇に、太郎が、太郎に、闇が。

 呼吸をあきらめ読み進むよりない。

「ああーコジマになりてぇー」

薄暮

「震災以後」の齎すべき、イマジネーションの決定的な変容。東日本大震災の直後は、それを競うような言説が賑わっていた。しかし、震災以前であれ以後であれ、変わらないものがあるはずだと、この映画は言っているように思える。

 *

 震災によって全く違ってしまった暮らし、というものはもちろんある。自宅を帰還困難区域に指定された雉子波くんは、新しい土地で、新しい高校生活を送っている。中学時代の初恋の人とも離れ離れになって。

 自宅で生活することができている佐智にしても、震災の後しばらくは、周囲が心配するほどに暗く沈んでいたという。それでも、制服の可愛さで選んだ高校へ通い、そこで友達も出来、そのうちに笑顔を見せるようになってきた。

 *

 制服の可愛さで学校を選ぶ。最初に挙げた言説の側からすれば、これはイマジネーションの停滞、震災以前への後退とも取られかねない。つきなみ、ありがち、エトセトラエトセトラ。しかし果たしてそうだろうか。

 さらに言えば。晴れた日にひとり遠回りして帰る下校路で、暮れなずむ山間の田園風景の美しさを、佐智は発見する。あるいはまた、雉子波くんと打ち解けられた佐智の心が、朧月夜に感応する。こんなことは、何十年、何百年、何千年も、人間が繰り返してきた営みだ。しかし、だからといってそれが切り捨てられるべき理由になるだろうか。

 人間が生きるかぎり繰り返される営み。言うなればそれは、人間の生きる業だ。裏を返せば、この業こそが、人間が生きるということだ。この映画は、確信を持ってまっすぐそれを描いている。そうして人間が生きることを肯定している。

 *

 日々に世界は美しく、人はまた人を好きになる。

かいじゅうこどもの海と空

海獣の子供

 琉花が、自分の手を引く海の手の熱さを感じ、守ってあげなくちゃ、と強く思うこと。その直後、台風の中を傘も差さず海と二人歩いていく琉花を、漁港の人がみとめること。

 傘を差さないのは、先ほどの決意がたちまちそういう形で現れたのだと見ることもできるかしれない。つまり、決意したからには、雨なんか気にしてられない、というように。

 しかし、そうであるよりも。自覚的で明瞭な意志を持つ以前から、琉花は外見的にはとっくに海の側にいて、漁港の人の視点はそのことをただ追認したのだと、私には思えた。