「ああーコジマになりてぇー」

薄暮

「震災以後」の齎すべき、イマジネーションの決定的な変容。東日本大震災の直後は、それを競うような言説が賑わっていた。しかし、震災以前であれ以後であれ、変わらないものがあるはずだと、この映画は言っているように思える。

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 震災によって全く違ってしまった暮らし、というものはもちろんある。自宅を帰還困難区域に指定された雉子波くんは、新しい土地で、新しい高校生活を送っている。中学時代の初恋の人とも離れ離れになって。

 自宅で生活することができている佐智にしても、震災の後しばらくは、周囲が心配するほどに暗く沈んでいたという。それでも、制服の可愛さで選んだ高校へ通い、そこで友達も出来、そのうちに笑顔を見せるようになってきた。

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 制服の可愛さで学校を選ぶ。最初に挙げた言説の側からすれば、これはイマジネーションの停滞、震災以前への後退とも取られかねない。つきなみ、ありがち、エトセトラエトセトラ。しかし果たしてそうだろうか。

 さらに言えば。晴れた日にひとり遠回りして帰る下校路で、暮れなずむ山間の田園風景の美しさを、佐智は発見する。あるいはまた、雉子波くんと打ち解けられた佐智の心が、朧月夜に感応する。こんなことは、何十年、何百年、何千年も、人間が繰り返してきた営みだ。しかし、だからといってそれが切り捨てられるべき理由になるだろうか。

 人間が生きるかぎり繰り返される営み。言うなればそれは、人間の生きる業だ。裏を返せば、この業こそが、人間が生きるということだ。この映画は、確信を持ってまっすぐそれを描いている。そうして人間が生きることを肯定している。

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 日々に世界は美しく、人はまた人を好きになる。