『わたしは光をにぎっている』
自分は光をにぎつてゐる
いまもいまとてにぎつてゐる
而もをりをりは考へる
此の
掌 をあけてみたらからつぽではあるまいか
からつぽであつたらどうしよう
けれど自分はにぎつてゐる
いよいよしつかり握るのだ
あんな烈しい
暴風 の中で掴んだひかりだ
はなすものか
どんなことがあつても
おゝ石になれ、拳
此の生きのくるしみ
くるしければくるしいほど
自分は光をにぎりしめる*1
およそ人は、自らの命を知りえない。あらかじめ自分の命を、その姿を、知ることができたら。その懊悩は、いつも甲斐がない。
甲斐がなくても。
「しゃんとしなさい」お祖母ちゃんは言う。知りえないなら、せめて姿勢を正そうと、してみることだ。
「ちゃんと生きてますか」これもお祖母ちゃんの言葉。ちゃんと、生きているか。答えに困る問いだ。ちゃんと生きたいと願う者には特にそうだ。でも、生きているということは、それはもう、ちゃんと生きているということなのだ。そうでなくて、生きることが何だろうか。