「永遠に 降る雪があるなら」

長谷川宏著『幸福とは何か ソクラテスからアラン、ラッセルまで』(中公新書

 序章にあらわれる、幸福についての導入のための言説の一々に疑いを抱かずにいられなくて。それでも本論に入ればどうにかなるかと思っていたが、序章における著者の見解に軸足を置いたまま論が進められていくため、終始どこかもやもやしながら読むことになった。

 たとえば、著者は序章で三好達治「雪」を引用している。

太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。

次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。

三好達治「雪」)

  著者は、この太郎や次郎を、子供の姿に当然のように思い描いている。しかしそれは果たして当然だろうか。

(……)太郎、次郎は昔話や民話にもよく出てくるありきたりの名前だが、同じような家々の立ち並ぶ静かで平穏な暮らしにあっては、そういうごく普通の子どもの寝るすがたを想像することはいかにも似つかわしい。(……)

(p.8)

(……)序章で取り上げた三好達治の二行詩 「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。/次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。」に読みとれるしあわせも、なにより、子どもである太郎と次郎の眠るすがたが呼び起こしたものだった。

(pp.62-63)

  眠らす、と言うからには、親が眠らすのだろう。したがって太郎や次郎は子供だろう。そう推論してのことかもしれない。しかし、この詩に仮に「太郎の母が」「次郎の父が」などの主語を置いた場合、文の前段と後段のちぐはぐさがたちまち明らかになる。

 では、親でなければ何なのか。ほかに主語となるべき語が作中にないから、太郎や次郎を眠らすものは雪だ、と読む向きもあるかもしれない。が、やはり同様に「雪が」と主語を補ってみれば、そこに違和感が生まれることは容易に見て取れるだろう。

 具体的な何が眠らすのであっても、この詩にはそぐわない。強いて言うなら「時が」とでも言うしかないような、それほどの大きな視線が、この詩を成り立たせている。そして、そのような場所から見たとき、太郎や次郎は、ほとんど何者でもない。子供でも大人でも、男でも女でも、何者でもよい、「太郎」「次郎」ではなく「A」「B」と呼んでみたところでよいはずの者であって、そこへ「太郎」「次郎」と名指すのは、時と視線を同化した作者の、いわば印のようなものだ。

 それ以上のことが言えるだろうか。