「僕の孤独はほとんど極限に耐えられる」

シェリー;小林章夫訳『フランケンシュタイン』(光文社古典新訳文庫

「(……)おまえがまだ生きていて、おれに対する復讐の気持ちを抱き続けていれば、おれが死ぬより、生きている方が心は満たされたはずだ。だが現実はそうではなかった。おまえはおれを消して、二度と大きな災いをもたらさないことを望んだ。もしもおれの理解を越えたやり方で、おまえが今も考え感じることができるとしても、おれが今感じているよりもさらに大きな復讐を望むことはあるまい。おまえがいかにうちひしがれても、おれの苦しみがずっと上なのだ。悔恨の痛みがおれの傷をうずかせ、それは死ぬまでずっと続くのだからな」

(p.399)

 身内や親しい人々を奪われたヴィクターにとっては、その復讐は、怪物の死をもって完了する。それよりほかになすべきはない、そう思い詰めていた。一方、ヴィクターから奪えるだけのものを奪い、それがためにもはや望みの全てを絶たれた怪物には、ヴィクターの死は復讐の目的たりえない。ヴィクターの命によってなお贖えないだけの復讐心を、怪物はその内に蔵していた。

 両者がまともに対決すれば、怪物がヴィクターを斃してしまうことは疑いがない。それは、ほかならぬ怪物にとって恐るべきことだ。それでは満たされない、どころかむしろ、ヴィクターをその手に掛けることは、決定的な欠遺を招くことだ。それゆえ怪物は、最終局面において、ひたすら逃げ回り、対決を先延ばしにする。ヴィクターに苦しみもがきのなかを追いかけさせることが、怪物にとっての復讐の一部だと、言えるかもしれないが、言ってみたところで、一部的な復讐など怪物には慰めにもならない。

 怪物を追って追って追いつづけ、ついにヴィクターは力尽き、死に果てる。そして怪物の復讐は、終わらない。ヴィクターの死は終わりではない。終わりはとうに失われたのだ。それでも終わりがあるとすれば? ただ、自らの死のときに、その命とともに、復讐もまた消えるだろう。怪物はそれを分かっている。おそらくはほとんど初めの罪のときから。分かっていて、その運命の窮極までを怪物は生き、去りゆく。死地と思い定めた場所へ。

 そのとき、この世にひとつの孤独も消える。