「姉さん。/僕は、貴族です。」

「斜陽」「人間失格

 全集の第9巻で残っていたこの2作を、ともに10年余ぶりに読みました。
「斜陽」を読むとき、私の関心事といっては、かず子・直治の姉弟はお互いをどう思っているのか、いたのか、そのことに尽きるわけですが皆さんはどうでしょう。
 ママについてなら、例えば冒頭にあるように、直治は「おれたちの一族でも、ほんものの貴族は、まあ、ママくらいのものだろう」と言い、かなわないとも言う。また、表現の仕方は違うけれども、かず子もおおよそ同じように思っていることは分かります。では、この姉弟がお互いをどう思っているのか。このことは、あまりはっきりしません。そこで、読む側としては、二人の関係性について定めがたく、落ち着かない気持ちのまま読み進めなくてはならないことになります。
 そうして、おぼつかない足取りの私たちは、さいご、直治の遺書と、かず子が上原さんに宛てた手紙に行き着きます。

(……)せめて姉さんだけでも、僕のこれまでの生命の苦しさを、さらに深くわかって下さったら、とても僕は、うれしく思います。

 かず子を自らの苦悩を伝える相手としたのは、ただ肉親だからということをこえて、また、ともに貴族の裔であるという実際の血筋上の事柄以上のところで、かず子に対して、いわゆる「貴族」どうしとして同族のものだという感じを持っていたからなのではないかという気もします。少なくとも、わかってもらえると期待できる程度には。

 姉さんは美しく、(僕は美しい母と姉を誇りにしていました)そうして、賢明だから、僕は姉さんの事に就いては、なんにも心配していませぬ。(……)

 すると、このように書かれてはあっても、本当はかず子のことを心配していたのではないかと思えてきます。願望として、あえてこのように書いたのではないかと。
 ところが、そう思ったそばから、今度はそれを否定したい気持ちになってしまいます。このとおり、文字通り、直治はかず子を誇りにしていたのだし、誇りにするということは、それはやはり、ただ肉親だからに違いないんです。

 いまの世の中で、一ばん美しいのは犠牲者です。
 小さい犠牲者が、もうひとりいました。

 一方、かず子は、上原さんも自分も犠牲者なのだといい、直治をもうひとりの小さい犠牲者だといいます。「小さい」犠牲者。
 なんだかもう、これで十分なんだと思います。何が「関係性について定めがた」いだ、詮索好きの私よ去れ、恥じよ。