『太宰治全集 3』(ちくま文庫)

「メロスは、単純な男であった」

 教科書で読んだ太宰といえば「富岳百景」と「走れメロス」で、当時「富岳百景」はかなり気に入ったものの、「走れメロス」の方は大した印象を持たなかった。薄っぺらいと思った。それが久しぶりに読み直してみれば、この年月の間に太宰テクストをたくさん読んで氏を知った気になっていることも手伝って、ラストのメロスの赤面には太宰の照れ隠しを見、またそこまでを書ききった氏の真面目を見して、何ともこっ恥ずかしい作品だと気づいた。二度読んでみるものだと思った。
 もう少し話を続ける。友情が達成されて暴君をも動かす、「走れメロス」は安直に言ってそういう作品なんだけど、友情といって心の往還が描かれることはない。ここにあるのは全てメロスの主観であり、三人称による描写でもカメラは常にメロスへと向かっている。「たった一度だけ、ちらと君を疑った」とセリヌンティウスが言うときでさえ、これはメロスへの発言として表れる限りのものであって、セリヌンティウスの内面心情の描写として扱われるものではない。メロス以外の者にまるでカメラは寄り添わない。

「(……)信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きなものの為に走っているのだ。(……)」

「もっと恐ろしく大きなもの」とは何か、という議論があるらしいのだが(「走れメロス」論(小林幹也)など参照 【※リンク切れ】)、それを指定することに意味はないと思う。メロス自身それを名指すことはできないけれどよく分からないまま走る、重要なのは、そのような人物としてメロスが描かれていることなのではないか。このような描写は序盤から一貫しており、それを端的に表しているのが「メロスは、単純な男であった。」という一文である。
 以上のことを踏まえて、「走れメロス」の主題は例えば友情といった普遍的なものでは決してなく、ただメロスの単純さに尽きる、というのが私の結論。思えば冒頭、「メロスは激怒した。」の唐突さが当然のように成立するところからして、我々はすでにメロスの単純さに巻き込まれている格好になっている。太宰の完勝である。
(上に挿入したリンク先に飛ばずにここまで読んだ人のために付け加えると、「単純さ」について、ほぼ同様の結論がそちらでも出されている。しかし、私自身もとりあえずここまで書いてから先方を読んだ次第なのだ、という弁明をひとつしておく。もちろんプライオリティを主張するつもりはない。むしろ、それ私も思いました、という賛同表明くらいに見ていただければありがたい。)

他の収録作品いろいろ

「春の盗賊」はなかなか本題に入らないところがたまらない。
「俗天使」は「女生徒」の番外編であり、また「人間失格」の予告入り。
「鴎」などに出てくる辻音楽師は「ウィーンの辻音楽師」なのだろうか。
「リイズ」はラジオ放送用でありながら素敵な掌編。太宰は素敵なもの綺麗なものを描いたとき、それはもうハッとするくらい素敵なんだけど、その辺りの事情は説明しづらいしする気もしないので、いきおい、一般的な太宰像、「如何にも太宰で御座い」的ダメダメな部分にばかり話が咲いてしまって、そうして強調される部分からアンチ太宰も生まれてくるのかなと、ファンとしては反省しなければいけない。
「女の決闘」「駈込み訴え」「盲人独笑」、それから「走れメロス」もだけど、この巻には翻案ものが多数収録されている。太宰は「語り」にとてもこだわった作家だけど、これら翻案ものに特にそれが顕著に表れているように思う。そも、先人の物したものを語り直そうという、ともすれば不遜とも映りかねない行いは、余程語りへのこだわりを持たずして敢えてなしうるものではない。

しくみの側で何とかしてほしい

 プレビュー画面からブラウザの「戻る」ボタンを押したために、ほぼ書き終わっていた内容がロストしてしまった。この程度のことを書くのにも2時間掛かってしまうのに、である。