「(言葉を)酒の酔いや幻覚など一切かりずに綴りつづけること」

吉本隆明『悲劇の解読』(ちくま学芸文庫

 太宰治全集の続きを読もうと思って、その前に本書の太宰治の章だけ。

 作品の具象的な理解にはいるまえに「わたしは、鳥ではありませぬ。また、けものでもありませぬ。」という唱歌の言葉にはっと気がつき、その言葉に気がついて驚いて起きあがる「私」の感受性に共鳴ができるといった心の状態が、太宰治の作品がわかるということであった。この唱歌の言葉の匂いを嗅ぎわける「私」の不幸な心に共感できるかどうかが、いわば信者の印のようにかれの作品が読者に迫る撰択であった。この特有の体験を記しておかなければ、かれの作品をまじめくさって論じても仕方がないことになる。
(p.22-23)

(……)けれどもいつもそこにひきもどされるが「他人の家の門は、自分にとって、あの神曲地獄の門以上に薄気味わるく、その門の奥には、おそろしい龍みたいな生臭い奇獣がうごめいている」といった個所に出遇ったときの、快楽ににた共感と誘惑を語らないとすれば、作品を不当に生まじめなうけとり方をしていることになるのだ。(……)
(p.31)

 このように言っておいてくれると心強い。ここからはじめていいのだ。ここからはじめるべきなのだ。ここからはじまるべきようなものなのだ。
 序「批評について」もまた、我われを厳しく優しくあと押しする。身につまされるが鼓舞発奮もされると言おうか、何度も読み返した。