「武満、それは他の誰でもない君がそう書いたからなんだ」

詩についての本を読む

 谷川俊太郎『詩を考える』『詩を読む』(以上詩の森文庫)、同『詩ってなんだろう』(ちくま文庫)を読んだ。

 これは一般的な話ではなくて、あくまで私個人の話だが、作品に関しては、そこに書かれている言語の正邪真偽に直接責任をとる必要はないと私は感じている。正邪真偽でないのなら、では美醜かとそう性急に問いつめる人もいるだろうが、美醜にさえ責任のとりようはなく、私が責任をとり得るのはせいぜい上手下手に関してくらいのものなのだ。創作における言語とは本来そのようなものだと、個人的に私はそう思っている。もしそういうものとして読まぬならば、その責任は読者にあるので、私もまた創作者であって同時に読者であるという立場においてのみ、自分の作品に責任を負うことができる。
(『詩を考える』p.82)

『詩を考える』中のこの一節は、私にも全くそのとおりだと思える。谷川俊太郎は、これは個人的なことであると何度も断りを入れているが、一般的にこのような態度を期待することって、やっぱり出来ないものなんだろうか。
『詩を読む』は、何といっても武満徹の死に寄せた文章。この友人関係は私には理想的に映る。そしてこれがただの理想じゃなくて実際に具現したことが嬉しく思う。あなたたちが知る由もないところで、あなたたちの知る由もない一個の人間もまた励まされているんです。
 合間にサン=テグジュペリ野崎歓訳『ちいさな王子』(光文社古典新訳文庫)も読んだ。ラッシュ時に出た他の邦訳は全く読んでいないけれど、これは気になったので読んでみればなかなか良訳だった。これが "LE PETIT PRINCE" の一番あと出しの邦訳だと思ったら、以降もまだまだ出版されているらしい。