碑銘がうまく乱される

森本浩一『デイヴィドソン 「言語」なんて存在するのだろうか』(NHK出版)

寛容はひとつの選択肢といったものではなく、使いものになる理論を得るための条件である。それゆえ、それを受け入れればとんでもない間違いを犯すことになるかもしれないと考えても意味はない。真であると見なされた多くの文どうしの体系的な連関をつくり上げることに成功しないうちは、間違いを犯すこともありえないのである。寛容はわれわれに強いられている。他者を理解したいのであれば、好むと好まざるとに関わらず、われわれは、たいていの事柄において他者は正しいと考えなければならない。
(p.53)

 上は引用箇所の孫引き。この本に出てくる「寛容の原理」というのはどこかで聞いたように思ったら、よい子の分析哲学の最後に登場する「思いやり」てやつだった。「よい子の〜」を読んだ時はなんと心細くも切ない話かと感じたのだけれど、それは分析哲学が最後に辿り着いたのが「思いやり」というものであったという歴史的な流れとして書かれていたからであって、この本を読んで理解した限りでは、「思いやり(寛容)」というのはともかくもそこから始まるしかないものだししたがって始まっているとすればいつだってそこからに他ならないような種類のものなのだから(そして現に始まりは常にいたるところで起こっているのだから)、そのような感傷的な気分とは全く無縁の、むしろこの条件付けによって私たちを元気付けさえする種類の事柄なのだと知れた。(この一文、言いたいことが伝わっているか自信はないが、しかし伝わると信じたい。)あとがきで著者自身がデイヴィドソンに元気づけられたと書かれているので、その思いのためにこんな風に読めたのでもあろう。
 全体を通して成る程と唸らされることしきりで、特に第三章の「マラプロピズム(言い間違い)」を巡る話は面白く読んだ。この流れで次は同シリーズの『クリプキ』を読む予定。