東京ニウモレタ先生アレバ/ツマラナイカラヤメロトイヒ

夏目漱石『こヽろ』(角川文庫)外1冊

 夏目漱石『こヽろ』(角川文庫)を読んで、しかるのちに石原千秋『『こころ』大人になれなかった先生』(みすず書房)を読んだらいろいろためになった。
 『こヽろ』においてひとつ重要なポイントは、東京行きの汽車の中で先生の遺書を読んだところで(その長大な引用で)終わっているこの小説のラストの場所と、そもそもの始まりの主人公の回想の場所との隔たりにあるのだと思う。この点についてはここでは省略する。
 そしてもうひとつ重要なのは、先生の遺書は先生の経験そのものではなくて、叔父の裏切りやKの自殺という出来事を経た先生がそれに対しておそらく何度も何度も加えてきたであろう解釈の堆積であるはずだということで、たとえば石原は前掲書で、先生にいわゆる「K殺し」の動機があったのではないか、と述べているのだが、よし遺書の内容からそのように読み取れたとして、それはのちに先生がそのように解釈したのだという以上のこととしては我々は追究できないのではないかと思う。フィクションだと言ってしまうのは言い過ぎなのだとしても。

 同時に私はKの死因をくり返しくり返し考えたのです。その当座は頭がただ恋の一字で支配されていたせいでもありましょうが、私の観察はむしろ簡単でしかも直線的でした。Kはまさしく失恋のために死んだものとすぐきめてしまったのです。しかしだんだんおちついた気分で、同じ現象に向かってみると、そうたやすくは解決がつかないように思われてきました。現実と理想の衝突、――それでもまだ不十分でした。私はしまいにKが私のようにたった一人で寂しくってしかたがなくなった結果、急に処決したのではなかろうかと疑いだしました。そうしてまたぞっとしたのです。私もKの歩いた道を、Kと同じようにたどっているのだという予覚が、おりおり風のように私の胸を横ぎりはじめたからです。
(下五三)

 このようにKの死因に対する理解の変化を述懐する箇所に出合ってさえ、我々はそのような経過がまさしくその通りに起こったのだとばかりは受け取れないのではないか。ただ、先生はここで自らの死とKの死とを関連づけた、という点だけ読み取れば十分だろうと思える。また先生は、乃木大将の殉死からも自らの死の意味を拝借しようとする。そうして、むすびにあたって「なかば以上は自分自身の要求に動かされ」てこの遺書を書いたのだとしている。このような書き方で先生の遺書は、努めて平凡さ凡庸さというところに落着しようとしているように私には見える。つまり、この常軌を逸した長さの遺書が伝えようとしていることはただ一点、自分がつまらない人間なのだという一点に尽きるのではないか、「いたましい先生は、自分に近づこうとする人間に、近づくほどの価値のないものだからよせという警告をあたえたの」(上四)だ、と先生の死後になって先生の動作を主人公が理解するようになるのも、先生の遺書からそのあたりの消息までを汲み取ってのことだとして私は読みたい。のだけど多分見当外れ。本当はこんなことが書きたかったんじゃないんだ。

 「かつてはその人の膝の前にひざまずいたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬をしりぞけたいと思うのです。私は今よりいっそう寂しい未来の私を我慢する代りに、寂しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己にみちた現代に生まれた我々は、その犠牲としてみんなこの寂しみを味わわなくてはならないでしょう」
(上一四)

 「我々」「みんな」がめいめい「この寂しみ」の果てにある自殺への道の途上にあるのだとしたら、人の死に方というものには、自殺するか、自殺をする前に死んでしまうか、そのどちらかしかないのかもしれない。