「僕は…/君に…/おとぎ話を…/してあげよう…。」

終ノ空

 ケロQの新作に『素晴らしき日々〜不連続存在〜』というのが予定されていてその登場人物一覧に間宮卓司くんが!って発見歓喜したのは、たまたま基4%のブログを見たことがきっかけで今年はじめ頃の話。
koinu computer 『素晴らしき日々』サイト更新
 卓司くんは僕にとってもヒーローなので、『素晴らしき日々』は当然発売日に買った。当然、て書いたけどエロゲを発売日に買うなんて生まれて初めてのことで、なので僕にとって卓司くんがいかに特別な存在かということがここに明らかなのであるが、さりながら未だにプレイしていない事実を踏まえれば、所詮は卓司くん好きと言い張るための証拠作りでしかなかったのだろうと自己分析する自分がいる。
 さて、『終ノ空』を10年ぶりにプレイした。

彩名「終わらない世界に、意味をあたえて、世界を終わらすの?/小説にエンディングがあることにより、登場人物に意味があるように/世界にエンディングを作って、自分に意味を付け加えるの?」
(「高島ざくろの視点から見えるもの」10日(20日-10日=?))

 行人は「世界が終わらないからこそ、世界の終わりを怖がる」ということが逆説的ではあるがありうるのではないかと考える。その後、屋上で音無(彩名)に弁当食わせて「あはははははははは」なんてなことを経て、世界において自分の存在に意味を見出そうとする人間は、終わらない世界を、風景を、始まりと終わりのある物語へと変えようとするのではないか、高島(ざくろ)もそうだったのではないか、と、彩名がざくろに語ったのとやはり同じような思考に至る。
 物語化されないとき、生はどうしようもなく呪われている。しかし、どうしようもなく祝福でもある。
 生まれたての泣いてる赤ん坊の夢について、行人は彩名に語る。物語化されない前の生そのものの喩でもあろうこの赤ん坊に対して、行人は何もなすことができない。意味を与えることが、死を与えることが、できない。そうしてできない(キャント!)ことこそが、自分の、生への予感なのだろうと言う。
 ただ呪いであり、ただ祝福である生。何かしらの意味の内に生きる我々は、その生そのものに決して届かない。触れることが出来ない。しかし、生の呪いが、生の祝福が、それを予感する心が、我々を生へと駆動する。この運動は、永久に生への到達を見ないがゆえに、行人によって次のように呼ばれる。すなわち「生へ至る回転運動」と。自らが兆しであり終わり以後/完全な世界へと至るものであると悟った卓司が「弁証法的螺旋階段」という言葉を用いたことと、これは対照的だ。

彩名「わたしは音無彩名/そう呼ばれてるもの/あなたのリルルちゃんの澱でも影でもない/わたしはあなたの妄想じゃない」
卓司「リルルちゃんは妄想などでない!」
彩名「…/そう/なら、わたしも妄想じゃない/あなたのモノじゃない/わたしは自同律をもつ者/つまり、人間」
(「間宮卓司の視点から見えるもの」17日(20日-3日=?))

 音無彩名が何なのか。それがついに僕には解らないのだけれども、彩名がリルルのことを「死霊(死の概念に宿る霊)」だと仄めかすその言葉を裏返して援用するなら、彩名はたとえば行人にとっての「生霊(生の概念に宿る霊)」とも言えるのかも知れない。たとえば。
 ところでマニュアルの人物紹介には「すべてを知り、そして、すべてを知らない。/一であり、全である少女。」とあるのだが、公式HPの紹介は、これに句点がひとつ加えられて次のようになっている。

すべてを知り、そして、
すべてを知らない。
一であり、全である。少女。
彩名ケロQオフィシャルHP『終ノ空』キャラクター紹介))

 個人的にはこちらを支持したい。窮極的には彼女は、ただ、少女である。そう言っていいのだと思う。
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 世界の終わりの7月20日より前に、何か書いておきたかった。それだけ。