『無責任艦長タイラー』のアニメがなかったなら、あの頃とっくに死んでしまっていただろうというのは、およそ間違いないことだ。毎週月曜の30分間だけが生きている意味のすべてだった時代。
今その私が長らえて、辻谷耕史さんの訃報に曝されている。「いよっ!花の年金生活」じゃあなかったのかよ、と叫んでも空しい。
峰子ちゃんはパン2○見え!
映画『若おかみは小学生!』
おっこだけにウリ坊たちが見えること。
おっこがたびたび、両親をまだ生きているもののように見ること。
死んだ人はどこへ行くのか。私たちの心のうちに、というのは一つの考え方だろうが、それとはまた別の事態を、この映画は示している。
花の湯温泉のお湯は神様から頂いたもの、だから誰も拒まない。祖母や亡くなった両親から、おっこはいつもそう聞かされていた。どんな客にも分け隔てなく接するという春の屋の理念はここから生まれている。しかし、花の湯温泉の神様が拒まないのは、何も人間ばかりではない。おっこがはじめは毛嫌いしていたクモやヤモリもそうだ。幽霊だって鬼だって、そうだ。
花の湯温泉の神様に奉納する神楽の舞い手に選ばれたおっこ。神様に最も接近しうるその神楽の本番中、おっこは、この瞬間がずっと続けばいいのにと思う。両親を亡くした後の、この瞬間に、続いてほしいと思う。
なぜならそこには、真月がいる。ウリ坊がいる。美陽がいる。舞台を見上げる両親がいる。友達がいる。すべてを拒まない神様の懐に抱かれて、みんながいる。
そうして花の湯温泉では、この瞬間はずっと続く。この瞬間の続きに、おっこはこれからもいる。
ノーブラはいつも稀有なものなのです!
『メジャーセカンド』#23「運命の一打」
弟にミットで胸を叩かれて「てか、そこどつくな!」と言う道塁。同じ声の人が別のアニメではノーブラおっぱいをもみもみしてくださいと言っていたことと考え合わせると、道塁はノーブラでないことが分かる。
マジック・キャッスル
『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』
まず何より、三階建てで横にやたら長いモーテルの建物の存在感。子供の足で端から端まで走るところを長回しで追うことで、余計にその長さは強調される。
この建物に架かる虹の映えること。
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モーテルの支配人のボビーは、いたずら盛りの子供たちとしばしば対立する。かといって互いが互いを全く邪魔にしているわけではない。しばしば対立することのうちに共存している、とでもいうか。
「アウトだ。一回で追い出すと言った」と、食べているアイスを床に垂らした子供たちをロビーから追い出す場面がある。これは、裏を返せば、一回垂らすまでは居ていいと約束を交わしたということでもある。どうせ垂らすに決まってるから、それを機に追い出せばいいと考えて約束したのかも知れない。安モーテルの住人と長年付き合い、そこで秩序を司ってきた者の知恵。ともあれボビーは子供たちを、頭ごなしにあしらうことはしない。
子供たちの方でも、例えばかくれんぼの道具立てにボビーを使おうとしたりして、口喧しいボビーには寄り付かないようにしようなどということはない。人を疎んじるなど思いもしない、子供ならではの万能感のためでもあろうし、ボビーがじっさい悪人ではないことを、子供たちは当然分かっているのでもあろうし。
そんなこんなで、映画が進行するにつれ、我々にもボビーの顔がどんどん懐かしく感じられてくる。