中野翠編『尾崎翠集成(上)』(ちくま文庫)
編者の中野翠は「小野町子もの」と呼んでいるところの、そして私が「分裂もの」と呼ぶところの一連の作品群が良い。「第七官界彷徨」は舞台の家こそが分裂病院ではないかと疑わずにおれない。「地下室アントンの一夜」は最後に用意された読者へのご褒美のよう。
間ちがいもなく、季節はずれ、木犀の花さく一夜、一罎のおたまじゃくしは、僕の心臓に変化を与えてしまいました。
(p.176)
私もこんな告白をしてみたい。そして分裂達が出会うべくして出会う地下室アントン! 世界から切り取られたような空間。一詩人の心の中に築かれたこの部屋は、一切の煩わしい規定を受けない。彼らの会話のみが響いて、紫煙はたゆたい、不思議と穏やかな幸せが充溢する。