「見たろうな? 毒殺の場にきたときな?」

読んだ本の残り

 横山紘一『十牛図入門 「新しい自分」への道』(幻冬舎新書)は、十牛図関係の本を読もうと思ったときにたまたま新刊の棚に見かけたので読んだだけのことで、自分探しをしたかったわけではない。
 この間映画を見直した流れで、いとうせいこうノーライフキング』(新潮社)を読んだ。小説の方は三読目だったと思う。事態を理解しない水田をエレベーターの下方に取り残して、まことたち各人の戦いは続く。それは今も続いている。「ガンバリマス」の六文字が、行き場を失いまことのもとに残されたとき、思えばそれこそが呪いだったのではないか。自らを信じ恃んで生きる者は、自らを呪っているのだという、そういうことなのかもしれない。
 福田恆存『人間・この劇的なるもの』(新潮文庫)が改版増刷されてたので読んで、それを踏まえたうえで同氏訳のシェイクスピアハムレット』(新潮文庫)を再読した。自らを宿命的なものと結びつけようとするハムレットは、現王がひとりでいるのを見つけて復讐の好機とばかり忍び寄るが、祈りの最中であることを見て取ると、宿命の完全な成就のために剣をおさめる(第三幕第三場)。そうして一方のレイアーティーズには「たとえ教会のなかであろうと、構うことはない、あいつ(ハムレット)ののどをかっさばいてやりましょう」(第四幕第七場)と言わせるのが対照的で、このような対照的な両者が、宿命を意識する者も意識しない者も、斉しく悲劇的な結末を迎えるというところがこの作品の肝なのかな、と読み返してみて思った。そこに、「結局、最後の仕あげは神がする」「所詮、あなたまかせさ」(ともに第五幕第二場)といった言葉が効いてくる。初読時はハムレットがばかに楽しそうだってことばかりが目に付いて、とても悲劇ではないと思ったものだけれども。