英雄を求めない

ドラえもん 新・のび太の宇宙開拓史

 いつもの空き地を中学生に盗られたところから物語は始まる。ジャイアンズの面々に空き地の奪還を押し付けられたのび太は、果敢にもひとり中学生たちを相手に交渉を試みるが、交渉は失敗に終わる。が、まったく外的な要因から、空き地はジャイアンズのもとに取り戻される。
 もちろんこの冒頭部分は、これからコーヤコーヤ星で起こる出来事を暗示している。あまりに明らかなことなので、ほとんど明示しているといってもいいかもしれない。
 コーヤコーヤ星の開拓移民たちは、立ち退きを求めるガルタイト鉱業からの執拗な嫌がらせに対してなす術なく忍従の日々を送っていたところが、のび太がめざましい活躍でガルタイト鉱業の連中を撃退したと聞くや、ためらいも臆面もなくのび太を救世主に祭り上げる。ピンチのときにのび太が現れなければ不満を漏らして憚らない。
 普通ならば、普通の物語ならば、結果的にはのび太に助けられるのだとしても、自分たちの星の問題なのだから自分たちが立ち上がらなければ、とひとまずはそのことに気づいて奮起しても良さそうなものなのである。そのような過程がひとつ挿入されてあれば、見る側としては合点がしやすいだろうから。似たようなことを『プリキュア』の映画のときにも書いた気がする。
 教訓じみた事柄とは無縁の物語だというべきなのだと思われる。そうして、タイトルの通り、ただ、作品が歴史の範疇に属するのだと考えれば、このことがたちまちの欠陥であると指摘することは当たらないだろう。あるいは、のび太が最大級に活躍することができる舞台を与えた作品、それが『宇宙開拓史』という作品なのだとすれば、その余りの要素はむしろ削ぎ落とされる方が望ましいのだとさえ言えるのかもしれない。
 ところが。ここにモリーナが登場する。
 モリーナは、はじめは堀江由衣なのが、父を失ってからは人を信じられず、自分ひとりを恃んで生きることを覚えたことで声が変わってしまったという、大掴みに言ってそういう少女なのだが、コーヤコーヤ星にあって彼女だけはのび太を特別視しない、英雄視しない。
「別に。普通の子だったけどね」
 こんなモリーナが、のび太と関わって、人を頼っていいんだということを知ったときに、同時に人に手を差し伸べることができることにもなる。それはまた取りも直さず、父の死を本当の意味で理解できる契機ともなりうる体験なのだけれども、そんな矢先、実は生き延びていた父との再会をモリーナは果たす。
 従来の『宇宙開拓史』が欠いていたところの通常ありがちな物語性を、たとえば人の成長といったようなものを、モリーナというキャラクターに一身に負わせた形で導入したのが、つまりは今回の『新・宇宙開拓史』ということになるだろう。
 さて、ではその善悪は? それは劇場で確かめてほしい。もしくは来年の今頃テレビで、確かめてほしい。
 個人的な見解を言えば、モリーナが登場することが、ロップルやクレムの物語上配置上の無意味性を際立たせてしまったように感じた。一方で付け加わった何かも確かに捨てがたくあって、判定の難しいところだと思う。難しく考えなければこれもアリってことで、少なくとも積極的に批判する気持ちにはならない。