透明な過去の駅の石つぶて係

茨木のり子『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書)

透明な過去の駅で
遺失物係の前に立つたら
僕は余計に悲しくなつてしまつた
谷川俊太郎「かなしみ」)

 本書でまず紹介されるのが谷川俊太郎の「かなしみ」で、この詩について茨木のり子は「この詩のなかの遺失物係に人はいたのでしょうか」と問い、「人気のない駅。どうも無人だったような気がします」としています。私はずっと「遺失物係」=「遺失物係の係員」とあたりまえに思い込んでいたので、読みはじめるなり目を覚まされたような衝撃でした。
 言われてみれば「遺失物係」といったらその場所、コーナーを指すと捉えるのが、どうしたって普通です。そうしてそのコーナーは、指摘のとおり無人なのでしょう。
 それでも、はじめてこの詩にふれたときに持ったイメージは、もはや手放しがたい拭い去りがたいほど私のなかで強いものとなっているし、だいいち手放したくもありません。
 私のイメージはこうです。
 おとし物を探し求めてたどり着いた透明な過去の駅で、遺失物係の係員であると一見してたしかに看取してしまえるような、それでいて駅同様になかば透明がかっておぼつかない人影の前に、ふと、僕は立ってしまっていた。表情をさえ読み取れない、無貌の顔とでもいおうようなものに出合う僕。遺失物係の無貌性は、僕のおとし物とつながりがありそうで掴みどころがなく、僕の悲しみは余計に深まるのだった。
 あなたの駅は、どんな駅ですか?
 *

関常の店へ 臨時配給の
正月の味噌もらひに行きければ
店のかみさん
帳面の名とわが顔とを見くらべて
そばのあるじに何かささやきつ
河上肇「味噌」)

 京都に住んでいた頃よくクアーズビールなど買い求めていたのが、岡崎郵便局近くの「関常」という酒屋さんで、名前の偶然の一致だろうと思って読みすすめていくと「吉田大路」ということばも見えて、おおおう、と唸ってしまいました。

 河上 肇先生の1944年元旦の詩「味噌」と題されてる詩に登場する、店のおかみさんと、そばのあるじというのは、実は我が関常のおじいちゃんとおばあちゃんなのです。
関常の味噌 【※リンク切れ】

 まさにこの店だったのでした。