シナリオえーだば創作術 だれでもできる脚本家
ときどき足踏みしながらも、1年近く掛けて読み通した。
足踏みをした理由はいくつかあって。ポケモン映画のなかでは僕は『ルギア爆誕』が一番好きなのだけれど、この作品の脚本上のミスについて触れられるあたりに差し掛かって、おそろしくて先を読み継げなかった時期もあった。休載とそのお詫びが繰り返され、それがもうあと何度も繰り返されるものではないことをすでに知っているつらさもあった。まあ、5年の連載を1年で読んだのだから、これでも早足すぎたとも言えるかしれない。
感銘を受けた箇所は少なくない。けれどいちいち控えながら読んでもいなければ、ここであらためて抜き書きしてみせることもできない。はじめからおわりまで何回でも読み返せばいいのだと思ってる。
それでも後半、記憶に新しく印象深いことには触れてみたい。
あなたも、どんなものに対しても自分なりの感じ方、本当の実態と違ってもこうあってほしいと思う気持ちを持って、それを表現してみよう。
それは、嘘、虚言ではなく、あなたのオリジナルな表現なのだ。
何かを表現する時、それが嘘であるという事を恐れてはならないと思う。
繰り返すが、それはあくまであなた自身の表現である。
(第144回 『ポケモン』シリーズ構成)
まったくもってそう思う。このことは一生肝に銘じていきたい。
「昨日の私」は今回、お休みさせていただく。近くの公園に行って『ルギア爆誕』のことを、思い出していたほか、何もしていなかったから。
(第200回 とうとう200回)
こんな日々を長らく失っていることに気付かされ、ハッとした。いつか僕の一日も『ルギア爆誕』に捧げたい。
前回書いた、土砂降りのセントラルパークでの経験で、僕の中の何かが吹っ切れたような気になった。
うまく表現できないのがもどかしいが、自分なりにこだわっていた『ポケモン』への気持ちがどうでもよくなってしまったのだ。
比べる方が無茶なのだが『ポケモン』を媒体にして何かを表現しようとしても、おそらく誰の意思も関係なく降ってくる土砂降りの雨にはかなわない。
(第222回 限界シリーズコンストラクション)
かなわない、と本人は言う。が、氏の表現したポケモン世界に僕が視ていたものは、まさにここで言われているニューヨークセントラルパークの土砂降り世界のごときものだった。はずである。少なくとも、第221回 ニューヨークのポケモンを読んだとき、「まるでこの光景はポケモン世界そのままじゃないか」と感じたことは間違いなくて。
いずれ言えなくなって後悔しないために、思いはとにかく伝えなきゃ! みたいなアリバイ作りめいた発想は持ちあわせてはいないけど、このことばかりは伝えておきたかったよう思う。といって連載中に読んでなかったんだからお話にもならないんだけど。