「くだらなすぎて、バカバカしくって楽しい。」

立川談志著『現代落語論 笑わないでください』(三一新書

 立川談志が死んだとき、毒蝮三太夫ヨネスケがワイドショーに呼ばれて故人にまつわる思い出話をした、そこでヨネスケが学生時代のバイブルだったと語っていたのがこの本で、それを見てさっそく読んだのだから、もう一昨年の話です。私ときたら、一昨年の話をしちゃいます。

 たしかに、地口落ちは作る方においてもいちばんたやすく、誰にでもつくれる。
 したがっていわゆる深味というものが、まるでない。
 落ちがないと噺が終らないから、仕方なく、つけたような感じをもつときすらある。
 もっとも地口、というものが、今より昔の方がもてはやされたこともあるにはあったのだが、どうもあまり感心しない。
 でもわたしにとっては、“踊る平家は久しからず”なんという落げとか、あんなに楽しい三方一両損を、“大岡ア喰わねえ、たった越前”とまったくくだらない落げで終るのは、むしろ愛すべき楽しさもあって、バカバカしすぎてうれしくなる時もある。
(p.19)

 あまりにもくだらないバカバカしさ。ある若い落語家が川柳の会に師匠につれられて出掛けていき、専門家が一同に会している中に、「ガイコツ」という題をだされたのに“ガイコツは男か女か分らない”とつくってだし、これを発表されて大笑い、師匠にコッピドク小言を喰ったという話。
 これらはくだらなすぎて、バカバカしくって楽しい。
(pp.29-30)

 バカバカしすぎてうれしい、くだらなすぎて楽しい、という心を大本に持っていた人だったのだなあと、知れればこっちがうれしいし、立川談志という人を認めるとき、まずはこの点を弁えておけば間違えっこないように思います。
 こうした感性は、帯に引かれている「落語とは人間の業を肯定することである」という言葉とも係わりがありそうです。このとおりの言葉は本書には見られないので、どこか別の場所での発言なのでしょうが(見落としていたらごめんなさい)、たとえば以下の箇所などは、その意味するところを多少なりと伝えているのではないでしょうか。

 泥棒の話で思いだしたが、先だって、名古屋で泥棒がある家へ忍び込み、隠れていたら、テレビから“幸せなら手を叩こう”という九ちゃんの歌が聞えてきた。さて仕事と思ううち、泥氏、つい聞き惚れてしまい、何と思わず自分も手を叩いてご用になったという実話があった。
 これをあるディスク・ジョッキーの語り手氏が、“バカ奴もいるもんです”と話題にしていたが、なぜこれを、“楽しい奴がいるもんです”とやれないのか。
(p.36)

 落語には往々、どうしようもない奴、というのが出てきます。お前さんはまったくしようのない奴だねえ、といった台詞も、実際よく聞かれます。そこで、そういう奴をつかまえて、バカだといって否定してしまっては、落語は成り立ちません。まったくしようのない奴であろうとも、長屋なら長屋にいて、そこに居場所があります。彼を取り巻く人々も、しようがないねえなどと言いながらも、見限るでなくどこまでも付き合いがいい。
 人間の業の肯定というと、なんとも勿体ぶったおカタイ言い回しですが、私流にヤワに言わせてもらえばここにあるのは、落語世界に通底し、落語を成り立たしめる、優しさです。