無化のさきにあるもの

小林ゆうについての覚書

 散乱メモの整理第2弾。
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 これはもう、4年前の話。『アニメギガ』にゲストで登場した小林ゆうは、番組の締めに司会者から、あなたにとって「演じる」とは? と問われたとき、しばらくの間をおいたあと、唐突に奇声を発する。猿を演じたのである。そうして、実際に演技をしてみてわかったことには、「今の瞬間は、やっぱり無だったと思います」「今は何もなかったような気がします」と答える。その瞬間が一番自由で、解放しているんだと思う、と。司会者は、状況に理解が追いつかなくて、なりきるってことなんですねー、とややピントの外れた単純化をしてしまう。その場で番組をまとめなければならない立場としては、これは仕方のないことではある。
 なりきる、と言うとき、その根本には、なる主体としての自分がいる。一方、演じている瞬間が無だと言うには、そこには自分がいないのでなければならない。演じている瞬間に、それを知覚し把握する自分がいなければこそ、無としか言いようがない。少なくとも、彼女自身は、自分が演じることをそのように捉えているように思える。
 外側から見る我々にしてみれば、乗り移っている、神鬼のことがらだ、等々の意味付けをして、それは好き好きであろうけれど(なりきっている、でも勿論いいのだけれど)、彼女自身から見える見え方というものを、まずは大事にしたい。
 そうしてそれは、彼女の絵についても同様に言えることだ。