「何だか美しい朝のようね」

八月の鯨』(ニュープリント版)

 すべては消え去ってしまう、遅かれ早かれ。
 頑迷にそう主張するリビーは、しかしこのことでマラノフと口論になったとき、思わず強く言い返す。自分の記憶、自分の思い出だけは特別で、どこへも消えたりはしない、と。
 夫を失い、視力を失い、若かりし日の美貌もどこへやら。これ以上、大切なものに離れていってほしくない。自らの死の観念に囚われるのは、消え去るものたちに取り残されることを、恐れる心の裏返しでもあるだろう。そうして、そんな自分の気持ちを、彼女は、本当ははじめから分かっていたのだろう。ただこの一日の出来事が、頑なだった彼女を少しだけ、素直にさせた。
 翌朝、セーラとリビーは家の前の岬へと向かう。そこはかつては八月になると、やって来る鯨を見るために駆け出してきた岬であったが、その鯨も姿を見せなくなって久しい。鯨はもう行ってしまって戻らないんだと言うセーラに、リビーは、それは分からないことだと呟く。繰り返し、繰り返し。
 すべては消え去ってしまう、遅かれ早かれ。
 月日がめぐり、季節がめぐるのは、それでも、思い出だけでも、私たちに連れてきてくれるためかもしれない。しれないが、それはまた、今しばらくは、共にあって消えないものを、そのあることを、恃んでもよいのだと、知らせるためでもあるかしれない。