「遊ぼうよ」

マイマイ新子と千年の魔法』覚書

 連続しないものを、意味のある連続に見せるのがモンタージュであることを意識するならば、連続して見えるものにも、本来的には連続性は存在しないのだということも分かってくる。この両面のはたらきが、モンタージュにはあるのではないか。
 相互に関わり合っているように見える、千年前の女の子のカットと新子や貴伊子のカットとのあいだには、本当は全くつながりがないのだと気づくとき、そこには言い知れぬ感動がある。モンタージュという手法そのものが、ここではあたかも魔法のように作用している。
 ところで、新子が防府の道を駆けまわることは、千年前という時代に由来する。由来するとともに、由来するがゆえに、そのふるまいはまた、千年前への呼びかけである。そこにモンタージュは付け込むのだ。付け込むという言い方が悪ければ、それを、モンタージュが、後押しする。
 じつは足の遅い新子を、貴伊子に速いと錯覚させるのも、だからモンタージュのなせる業!(?)
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 机の上に散らばっているメモの整理がてら。メモなので考えがまとまりきっていないし、モンタージュという言葉の意味もいまいちよく分かってない。映画ってすごいねというだけですむ話かもしれない。