答えられない問い

吉本隆明吉本隆明拾遺講演集 地獄と人間』(ボーダーインク

[……]僕らも、近親者をいくたびか見送ったことがありますけど、答えられないんですよ。兄貴の長女が子宮癌で亡くなりましたけど、そのときもそばにいて、「叔父さん、どうかんがえたらいいの」って。医者のほうからは、もうあきらめられているというのは、知っているのですけど、で、「これはどうかんがえたらいいの」と聞かれて、僕は答えることができなかったんですよ。それでできなくて、答えられないで、お前、偉そうなことをいっているのはおかしいというふうに、そのとき、自分が、何ていうか、口惜しくて、くやしくてしょうがなかったというおもいをもっています。そのくやしさは、今ももっています。答えられないのですよ。そういうふうに、真っ正面から、そういう境地になっている人に聞かれたら、僕、答えられないんです。

 もうひとつ、こういうことがありました。それは、交通事故で、腕のここから先を切りとらざるをえなかったという人で、知らない読者の人でしたけど、やはり、「これをどうかんがえたらいいのですか」と聞かれたんです。それも答えられないのです。どうかんがえたらという意味は、僕は、すぐ、どういうことをいっているのかわかりましたけど。わかることはわかりました。

 つまり、腕のここから先を切りとったと、切りとらざるをえなかったと。しばらくの間、幻肢というのがあるという。医者は、そういうのがあるとよく知っています。それが、いろいろなことで、動きを邪魔したりして、それで、どう扱っていいのかわからないという事実があるわけです。だけど、その人が聞いているのは、事実ではないのです。ある日、交通事故で、腕のここから先をとらざるをえなかった。そのことは何なのだと。身体の一部がひとつなくなってしまった。幻肢は少しあるかもしれない。しかし、それは、二の次の問題で、事実としてそうであるかどうかは別で、この突然なくなる、肉体の一部分ですが、これがなくなるということは、どういうことなのだということを、知りたいという。そういうことだと。読者の人で、雑誌のうえではよくお目にかかっているから、そういう意味で、思想的には初対面ではないのですが、そのときも答えられなかったわけです。それで、これはいかんと。こういうことに答えられないで、何か偉そうなことを書くというのはおかしいではないかと、自分を問いつめたことがあります。

 それで、今、聞かれたらどうなのだと。これはちっとも解決していないのです。それはこうなんだということはいえませんし、瀬戸内寂聴さんみたいに、「死は怖くないわぁ」なんて、そんなことはもちろんいえませんし、今でも答えられないんですよ。

(「日本浄土系の思想と意味」、pp.270-272)