『やがて海へと届く』
すみれの遺品を渡すために、すみれの実家を訪れた真奈と遠野。それを迎えた母親は言う。すみれが中学生の頃から対立するようになり、娘のことをどこかしら遠く感じていたが、いなくなったことで、今はかえって近くなったように思う。あの頃の、対立する前の親子に戻れたようだ、と。リビングには、母親の言葉を裏付けるように、幼少期のすみれのポートレイトばかりが何枚も飾られている。
すみれの母親の気持ちも解る、と遠野は言う。そうして、自分の中ですみれを生かし続けることを止めたのだ、別の女性と婚約したのだと告げる。
しかし真奈は解らない。そんなの解りたくもない。すみれを思い出にすることも、過ぎ去らせてしまうことも――。
反発する真奈に、堪りかねた遠野が問う。お前の中では、すみれはあのときのまま止まっているのか。
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いなくなってしまった人を、どう処すればいいのか。大切な人を亡くした者に、何ができるのか。
自殺もしくは奉仕だと、中原中也は書いたけれども。そのアンサーは、死んだ人はもういないのだという実際的な考えに囚われすぎているのだろう。
過去じゃない。思い出じゃない。いなくなってしまった人と、残された者とが、今、出会うことができるならば。いなくなってしまった人の今と、残された者の今が、出会うことができるならば。
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すみれの遺したビデオカメラ。それを向けていないとうまく会話できないんだとうそぶいて、片時も離さず持ち歩き、事あるにつけなきにつけ回していた、すみれのビデオカメラ。
それは確かに多くのことを記録もした。けれどもそうである以上に、すみれにとってそれは、その時々の他者との媒であり、目であり、耳であり――。
そのビデオカメラが今、真奈のもとにある。
しばらくは、それを専らすみれの記録した映像を見ることに使っていたが、いつか真奈は思い立つ。いくつもの時を共に過ごした窓辺で、暖かな春の日差しを受けながら、真奈はカメラのレンズに向かう。
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発する言葉は。
それは祈りを超えないとしても。