絶対知の他人

いとうせいこう『波の上の甲虫』(求龍堂

 手紙の内容とノートの内容と、どちらがフィクションでどちらが現実かがだんだんあやふやになってくるんだけど、最終的にはそれどころではないことになる。誰も出したはずのない絵手紙が届いたということは勿論だが、それ以上に我々は、そもそも誰も読みえたはずのない物語を読んだことになるわけで、このふたつの奇妙さ、不気味さ、すわりの悪さが同時に読者を襲う仕掛けになっている。
 作中の編集者にとっては不思議なことなんてなくて、主人公の作家が仕事そっちのけでバカンスを楽しんできたのをごまかしているか、せいぜいちょっとした事故くらいにしか思わない。この感覚はただ我々に対してのみ差し向けられているのである。
 では、その我々とはなんなのか。この出来事を知りうる我々、この物語を読みうる我々というのは、つまるところ、この物語内に存在しえない者であるといえるだろう。決定的に、絶対的に、「∞」の外側に存在する我々。