全体と部分と

熊野純彦メルロ=ポンティ 哲学者は詩人でありうるか?』(NHK出版)

 p.40辺りまで読んで、部分の連合によって全体の意味が結ばれるのではなくて、実際はその逆、全体が前提としてあってそこから部分に意味が配分されるのだ、というような箇所がちょっと引っかかった。
 何かが何かの部分であったり、何かが何かの全体であったり、そういったことは一体どの瞬間から可能になる事態なんだろうかなあと。ここに引かれている例で言えば、帆柱や煙突が船の部分であったり、逆に船が帆柱や煙突などを総合した全体であったりするってのは、何かしらの操作の末に起こることなのではないかと。
 意味の流れのベクトルを連合とみるか配分とみるか、いずれ大した違いではないと思う。少なくとも私には帆柱が船の部分だなんてことは信じられない。