美のあとにいつも私が残される

三島由紀夫金閣寺』(新潮文庫

 いやに理路が整っている、そしてこれは主人公の告白である、ということを考えあわせると、どれだけの時を隔ててなされた告白であるかは分からないけれども、この告白を主人公は遺書として物したのだと考えるしかないと思う。もしそうでないと考えるなら、作中の理路がいかに鮮明であったところで、その拠って立つ根本の問題としてなぜ主人公の告白という形式が択ばれなければならなかったのかという点で大いに疑問が残るし、この一点だけを以って全く評価に値しない作品であると断じてよいだろうから。「生きようと私は思った」と締めくくられたこれが遺書であると受け取るならば、そのときはじめて(辛うじて)評価の緒を見出しうるのだと思う。