ココロパフューム

「毎月抄」

 ただし、すべてこの躰のよまれぬ時の侍るなり。朦気さして心底みだりがはしきをりは、いかによまむと案ずれども有心躰出で来ず。それをよまむよまむとしのぎ侍れば、いよいよ性骨も弱りて、無正躰事[正躰無き事]侍るなり。さらむ時は、まづ景気の歌とて、姿・詞のそそめきたるが、何となく心はなけれども歌ざまの宜しく聞ゆるやうをよむべきにて候。当座の時、殊更心得べき事に候。かかる歌だにも四、五首、十首よみ侍りぬれば、蒙昧も散じて、性機もうるはしくなりて、本躰によまるる事にて候。
(「毎月抄」『歌論集(新編日本古典文学全集 87)』pp.496-497)

 6日の記事の「景気の歌」云々はこの辺。ほかにも、力んで意識的に詠もう詠もうとするよりは、日頃の稽古のうえに企みなく自然に詠んだときに、かえって秀歌というものは生まれるものだ、とか、心構えとしてなにかと重宝する教えが多くあり。
 以下、いくつか写経。

(……)所詮心と詞とを兼ねたらむをよき歌と申すべし。心・詞の二つは鳥の左右のつばさの如くなるべきにこそとぞ思う給へ侍りける。ただし、心・詞の二つを共に兼ねたらむはいふに及ばず、心の欠けたらむよりは詞のつたなきにこそ侍らめ。
(同p.499)

 両方が備わっている方が良いのはもちろんだが、両方が無理である場合には、詞が巧みでも心の欠けた歌よりは、詞が拙くても心がある方が良いだろう、ということが言われている。
 ここで、心と詞とが分けて考えられるものとして扱われていることは興味深い。より正確には「心の有無」と「詞の巧拙」だけれども。

 およそ歌を見わけて善悪を定むる事は、殊に大切の事にて候。ただ人毎に推量ばかりにてぞ侍ると見えて候。その故は、上手といはるる人の歌をばいとしもなけれども讃めあひ、いたく用ゐられぬたぐひの詠作をば、抜群の歌なれども、結句難をさへとりつけて譏り侍るめり。ただ主によりて歌の善悪をわかつ人のみぞ候める。まことにあさましき事とおぼえ侍る。これは、ひとへに是非にまどへる故なるべし。
(同p.507)

 つまり、歌そのもののよしあしを見ることができずに、誰が作ったかというような外的要因から予断と偏見をもって歌の評価をする輩が多くて嘆かわしい、と。
 みんな耳が痛くなればいい。僕も痛くなるからさ。だいたい僕は富野以上に井荻が好きです、て話はしたことがあったっけ。なので十分に痛くなる資格はあろうというもの。