「なるわ! たくさん詰めこんだもの!」

去年見た映画

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 40回くらい行ってるだろうという感触でいたけど、数えたらのべ32回しか劇場に行ってなかった。
 結局『新・鉄人兵団』の感想を書かずじまいだったな。いやあ、リルルのお尻がね(略)。
けいおん!』は、映画ということで細かいネタがたくさん詰め込まれていて、それを探しあてるのも一興ではあろうけど、そういういやらしさ、邪念を捨ててスクリーンに正対するのが、何よりぜいたくな見方だろうと思う。もともとそんなことのために僕らは『けいおん!』を好きになったのか。
 放課後ティータイムのみんな、こんな遠くへ行っちゃって、このまま帰ってこないんじゃないかしら、なんて途中寂しく思えてきて、でもよく考えたら戻ってくるに決まっているし、戻ってくるったってそれは自分のところではないしという当たり前のことに気づいて、ほんとうにスクリーンのこっちがわとむこうがわの遠さというものはどれだけ前の席に座ろうとも絶望的に埋められないものだ。僕が前列主義をやめられないのはその絶望のためでもあるよ。

映画けいおん!

 ひとつだけ書いておきたいことがあったので、それはそれと棚にあげて書きます。いやらしいのも嫌いじゃねーです。
 完成した「天使にふれたよ!」をプレゼントする前に、歌のプレゼントのことをどうやって切り出すか、卒業する4人は相談します。ふりかえって、デスデビルごっこをすることにしたときも、作中には描写されませんが同じように相談したはずです。そうしてこのふたつは、彼女たちの中でなんら差のないことなのだろうと思います。梓がいないときの4人は、梓を驚かす相談をしたり、梓を喜ばせる相談をしたりしながら、梓がやってくるのを待っています。それが、軽音部という場所における、彼女たちのはぐくんだ、先輩・後輩の関係性です。
「天使にふれたよ!」の演奏が始まって「そっか……」と梓がつぶやいたのは、私たち観客はいましがた見て知っている、しかし彼女は知らない、先輩たちの相談する姿を、その思いを、わかってしまったからでしょう? 私たちの見た相談風景が、網膜を反射して、先ほど述べた絶望的な断絶をこえて、梓の目にも飛び込むのだとしたら、映画館にいる私たちは肯定されますし、肯定されなくていいから飛び込んだのであって欲しいと思います。
 あるいはこう考えてもいいかもしれません。私たちがそれまでの1時間30分とか1時間40分とかのあいだ見てきたものは、「そっか……」とつぶやいた梓の脳裡をかけめぐったものだったのだ、と。梓の幻視を私たちもまた、見た。
 いずれ戯言ではあります。

卒業は終わりじゃない
これからも仲間だから
(中略)
ずっと 永遠に一緒だよ
放課後ティータイム「天使にふれたよ!」)

「出会いがあればまた、別れもある」というようなことは藤崎詩織さんだって誰だって言いますし、私もそんなものだろうと思っていましたけれど、別れというものは、これが別れと決めたときにやってくるものであって、必ずしも自明に不可避的にあるものではないのではないか、『けいおん!』以後の私はそんなふうにも思っています。