「シリーズ・哲学のエッセンス」の2冊
予告どおり飯田隆『クリプキ ことばは意味をもてるか』(NHK出版)は読んだんだけど、そのあと続けて斎藤慶典『デリダ なぜ「脱-構築」は正義なのか』(同)を読んだのでそれどころではない。この副題の名づけ方が安易に見えて(最近「なぜ○○は××か」という題の本(特に新書)をやたら目にすると思いませんか?)しばらく読み控えていたのだけれど、読んでみればなんか凄い変な本で読み応えがあった。デリダへの語りかけ調の採用しかり、「つねに(いつも)すでに」論法の多用(とそれに伴う過去形の発見の連続)しかり、とにかく変なんです。
この本で言われる脱構築の正義って、カントの倫理にも通じるんじゃないかと思った。カントの、というか柄谷がカントから読み取ったところの倫理。もういない、或いは未だ生まれ来ないもの(したがって抗うすべを持たないもの)に対してこその責任てやつ(この辺うろ覚え)。「他者を手段としてのみならず、同時に目的として扱え」てやつ。そしてデリダの他者はどこまでも不可能であることによってのみ可能なのだという。
また、脱構築の正義が独善でありうることを恐れてはならない、避けてはならない、という。でもそれを言ったら他者に対してはたらいてしまった(と思われる)暴力にしたって独悪でありうるという寸法にはならないのだろうか。
とりとめのないまま終わる。ちなみにことばは意味をもてる。