都築杢之進の消失

『斬、』

 人を斬ることが出来ない、女を抱くことが出来ない、江戸への出立の日に熱を出して倒れる。どこまでも手前に留まる、留まってしまう者としての杢之進。

 であればこそ、市助たちの敵討ちに立ち上がろうとしないことを罵るゆうの声は、杢之進の鼓膜を震わしうる。

 また必然、澤村と殺し合い、人斬りをしとげたその瞬間、杢之進とゆうとの間には、間ということさえ言えないほどの絶対の隔たりが生まれる。決定的な一歩を向こう側へと踏み越えてしまった杢之進の、行くべきは、スクリーン奥しかない。ゆうのわななきは、どこまで響き渡っても、もはや永遠に届きようがない。

「あのね、物にはみーんな魂があるって知ってる?」

かみさまみならい ヒミツのここたま』#138「ここたま界を救え!」

 ここたまハウスの新しい飾り作りがうまくいかなくて、リビングのソファーにうつ伏せになるこころ。「どうして私ってばこんなに不器用なんだろう」

 そんなこころにお母さんが声を掛ける。

お母さん「こころ、おばあちゃんの口癖、覚えてる?」

こころ「うん、覚えてるよ。『物にはみんな魂がある。大切にしたらいいことがあるよ』って」

(#138「ここたま界を救え!」)

 そうしてお母さんは、ときどき自分も、魂がある物たちが助けてくれているんじゃないかって思うときがあるのだと言う。困難にあって、不思議とうまくいくときが。何かを好きだという気持ちは、道具や物に伝わる。不器用だっていいじゃない。

 例えば『夢色パティシエール』のいちごは、スイーツ精霊の応援を受けながら特訓を重ね、徐々にスイーツ作りの腕を上げていく。一方、最終回目前に至ってもなお、こころの不器用は変わらない。おシャキに言わせれば「こころさんは控えめに言って不器用です」となる。

 こころだって頑張っているのだ。だからこそ上のように悩みもする。ここたまたちだって応援している。いつも騒ぎの元だとしても。

 それでいいのだ。その調子でいいのだ。ここたまと人は、何かを好きだという気持ちのあるところでは、何かを大切に思う気持ちのあるところでは、いつでも共にあって、だからそれで。

 あとはたまごが転がるように、なるものはなるもののようにしてなる。

ダダ100年、はいから100年

 第1回ダダの夕べにおいて、「ダダは僕らの強烈さだ」と叫ばれたのが1916年(「ムッシュー・アンチピリンの宣言」)。「ダダは何も意味しない」という有名なフレーズを含む「ダダ宣言1918」はもちろん1918年。これらから数えて、およそ100年が経過したことになる。

 先日後編が劇場公開された『はいからさんが通る』で、伊集院少尉が消息を絶つことになるシベリア出兵が1918年だから、やはり100年。そうしてクライマックスに起こる関東大震災が1923年。『ダダイスト新吉の詩』はこの年の2月に刊行された。

 震災を無傷でやりすごした伊集院邸。その堅牢さは、少尉と紅緒の思い合う心、その結び目と同じ固さでもあるようだ。と書きながら、そのような読み解きを私は信じていない。

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 はてなダイアリーからのインポート申請が混み合っていて受付停止中ということなので、デザイン調整のために適当な長さの何も意味しない文章を書いてみた。よろしくはてなブログ

消えた年金

無責任艦長タイラー』のアニメがなかったなら、あの頃とっくに死んでしまっていただろうというのは、およそ間違いないことだ。毎週月曜の30分間だけが生きている意味のすべてだった時代。
 今その私が長らえて、辻谷耕史さんの訃報に曝されている。「いよっ!花の年金生活」じゃあなかったのかよ、と叫んでも空しい。

峰子ちゃんはパン2○見え!

映画『若おかみは小学生!

 おっこだけにウリ坊たちが見えること。
 おっこがたびたび、両親をまだ生きているもののように見ること。
 死んだ人はどこへ行くのか。私たちの心のうちに、というのは一つの考え方だろうが、それとはまた別の事態を、この映画は示している。
 花の湯温泉のお湯は神様から頂いたもの、だから誰も拒まない。祖母や亡くなった両親から、おっこはいつもそう聞かされていた。どんな客にも分け隔てなく接するという春の屋の理念はここから生まれている。しかし、花の湯温泉の神様が拒まないのは、何も人間ばかりではない。おっこがはじめは毛嫌いしていたクモやヤモリもそうだ。幽霊だって鬼だって、そうだ。
 花の湯温泉の神様に奉納する神楽の舞い手に選ばれたおっこ。神様に最も接近しうるその神楽の本番中、おっこは、この瞬間がずっと続けばいいのにと思う。両親を亡くした後の、この瞬間に、続いてほしいと思う。
 なぜならそこには、真月がいる。ウリ坊がいる。美陽がいる。舞台を見上げる両親がいる。友達がいる。すべてを拒まない神様の懐に抱かれて、みんながいる。
 そうして花の湯温泉では、この瞬間はずっと続く。この瞬間の続きに、おっこはこれからもいる。