祈りの装置

『やがて海へと届く』

 すみれの遺品を渡すために、すみれの実家を訪れた真奈と遠野。それを迎えた母親は言う。すみれが中学生の頃から対立するようになり、娘のことをどこかしら遠く感じていたが、いなくなったことで、今はかえって近くなったように思う。あの頃の、対立する前の親子に戻れたようだ、と。リビングには、母親の言葉を裏付けるように、幼少期のすみれのポートレイトばかりが何枚も飾られている。

 すみれの母親の気持ちも解る、と遠野は言う。そうして、自分の中ですみれを生かし続けることを止めたのだ、別の女性と婚約したのだと告げる。

 しかし真奈は解らない。そんなの解りたくもない。すみれを思い出にすることも、過ぎ去らせてしまうことも――。

 反発する真奈に、堪りかねた遠野が問う。お前の中では、すみれはあのときのまま止まっているのか。

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 いなくなってしまった人を、どう処すればいいのか。大切な人を亡くした者に、何ができるのか。

 自殺もしくは奉仕だと、中原中也は書いたけれども。そのアンサーは、死んだ人はもういないのだという実際的な考えに囚われすぎているのだろう。

 過去じゃない。思い出じゃない。いなくなってしまった人と、残された者とが、今、出会うことができるならば。いなくなってしまった人の今と、残された者の今が、出会うことができるならば。

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 すみれの遺したビデオカメラ。それを向けていないとうまく会話できないんだとうそぶいて、片時も離さず持ち歩き、事あるにつけなきにつけ回していた、すみれのビデオカメラ。

 それは確かに多くのことを記録もした。けれどもそうである以上に、すみれにとってそれは、その時々の他者との媒であり、目であり、耳であり――。

 そのビデオカメラが今、真奈のもとにある。

 しばらくは、それを専らすみれの記録した映像を見ることに使っていたが、いつか真奈は思い立つ。いくつもの時を共に過ごした窓辺で、暖かな春の日差しを受けながら、真奈はカメラのレンズに向かう。

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 発する言葉は。

 それは祈りを超えないとしても。

天涯を比隣とする

『グッバイ、ドン・グリーズ!』

 中学の課外学習のときにチボリがロウマのカメラを借りて撮った一枚の写真。それに目を留めたドロップに、こんなきれいな青に染まった写真を自分は撮れないとロウマは言う。しかしドロップはその言葉を訝って、この写真でチボリが撮ったのは青じゃない、赤だと返す。

 一面の野に咲く青い花。そこをまさに今飛びあがる、天道虫の赤のひとすじ。

 ドロップに指摘されたことをきっかけに、ロウマはこの写真をSNSに投稿する。するとほどなく、チボリがそれに応答して、別の写真を投稿する。同じ課外授業のときに、ひそかにロウマを撮った写真を。あの青い野の中を、ロウマはひとりで、赤いシャツを着て――。

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 思えば、ドン・グリーズの三人が探すドローンは赤、アイスランドの原野のどこかにドロップが求めた電話ボックスも赤で、この映画は、赤い物を見つけることの反復の物語になっている。そして、反復の必然として、これら赤い物を見つけることは、それが示しているのは、すべて同じことなのだ。

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 止しなよ、つまらない指摘だよ。

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 空の青海のあをにも、と言うけれど、それを見つける人もまたいて。

「すごい……みんなの歌になっちゃった。帰ってきたって感じ、ポピパに」

BanG Dream! 2nd Season』#12「Returns」

 ライブ直前になってたえは、「Returns」のラストに詞を書き加える。「ありがとう…/心が震えだす歌 Returns」と。

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「Returns」については、それまでにも曲中で歌われている。「心震わす歌 Returns」、あるいは「時を彷徨う歌 Returns」。このように言うときの主体は歌だ。歌が、心を震わす。歌が、時を彷徨う。つまりこれらは、歌の側から書かれた詞であって、逆から言えば、ここまでの詞を書いているときのたえは、この歌の側に立っている。

 さて、ライブ当日。

 はじめは自分が作った「Returns」、自分自身をぶつけた自分の歌だった「Returns」を、Poppin'Partyの皆が受け入れてくれ、今の形に出来上がった。これはもう、ポピパの歌だ。「Returns」は、いつかたえからはみ出して、たえを大きく包み込んでいた……。その思いが強まったとき、たえは、先のフレーズを歌詞ノートに書き加える。

 心が、震えだす歌。

 外側とはいわないまでも、「Returns」がある種客体化されたことで、はじめて生まれたこれは詞だ。

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 そうしてたえは香澄に告げる。

「香澄に歌ってほしい。「Returns」は、ポピパの歌だから」

 

伝説のパパイヤ

『トロピカル~ジュ!プリキュア』#40「紡げ! みのりの新たな物語すとーりー

「マーメイド物語」には、駄目なところがいっぱいある。キャラクターも物語もありがちで、自分自身の経験したことが入っていない――。

 かつて自作に向けられた批判を、みのりは今も引きずっている。

 トロピカる部で「マーメイド物語」を演劇にしようという提案にも、だからみのりは尻込みする。それでも、気に入らないところは書き直せばいい、そうローラに促されて、みのりは再び「マーメイド物語」に向き合おうとする。自らの傷に、恐る恐る触れはじめる。

 しかし、「マーメイド物語」は本当に、さきの批判に言われるような空っぽの作品なのだろうか。

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「マーメイド物語」の作中でキーとなるアイテム、伝説のパパイヤ。それを食べると、すごい力を得られるという。

 この設定のために、当時みのりはパパイヤについて、本でいろいろ調べていた。そうして知識の上ではパパイヤに詳しくなったみのりだが、実はこれまでパパイヤを食べたことがなかったことに気づかされる。頭でっかちで駄目な私……。

 それは君の良いところじゃないか! 大きな声でそう言いたい。

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 みのりがパパイヤを食べたことがないこと、それこそが、不思議な力の萌すよすがだ。食べ慣れてありふれた果物ではないからこそ、みのりはそこに不思議の香りを感じたはずで、伝説のパパイヤとはしたがって、「マーメイド物語」に刻み込まれたみのり自身ではないのか。

竜とそばかすのバーストリンカー

『竜とそばかすの姫』

 仮想世界〈U〉で活動する自らの分身、〈As〉。少し悩んだ末、鈴はそれを「Bell(ベル)」と名付ける。鈴だからベル。素朴な名付けだ。

 ベルがその歌声を披露して間もなく、〈U〉はベルの話題で持ちきりになる。その中で、誰からかこんな声が上がる。「ベル」の綴りは「Belle」こそふさわしい、フランス語で「美しい」という意味だ、と。

 それ以降〈U〉においては、ベルの話題は「Belle」の表記で流通する。そうして誰も「Bell」のベルを見ることをしない。〈U〉の住人たちは、彼らの見たい虚像を見るだけだ。

 現実のベルは誰だ、ベルの正体探しだと盛り上がっていても、あの有名人じゃないか、いやこの有名人だ、というばかりで、彼らが見つけられるのはどこまで行っても空しい何かだ。虚像の内側とはそんなものだ。

 その一方で、いつでも鈴その人を見ている、鈴の周りの人たちは、〈U〉にあっても易々と彼女を見つける。その理屈は描かれないが、たしかに理屈はないのだろう。

 ただ、それのみならず。チームそばかす(私なりの素朴な名付け)の皆さんは、現実の「竜」の居場所をさえも、驚くべき早さで見つけてしまう。圧倒的リアル割り能力。彼らなら、〈U〉ではなくて〈ブレイン・バースト〉の世界でも、かなりやれるのではないか。

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 ベルのファンたちが殺到して処理落ちすることで活路が開ける的なクライマックスだけは勘弁してほしいなと祈っていたら、そういう展開にはならなかったので、それだけでもう個人的には良かった。

 それにしても。あたかもパソコンがないところのように島根を描いた同じ手が、田舎の廃小学校にまでブロードなネットワークが行き渡った高知を提示してみせるというのは。細田守は今一度、島根をポジティブに扱った映画を作った方がよいと思う。